車いす大阪大奇行

車いす大阪大奇行

その1
 最近、急に体力の衰えを感じてきた。このまま次第すぼりになっていきそうで、どこかへ出かけることも不可能になるのではないかと不安でたまらなかった。こんな気分に活を入れようと思い立ったのが、友人とのふたり旅だった。その友人M君にはキャンプなどで何度か介助してもらっていて、僕の障害とか性格を把握してくれていると判断した。
 幸い旅費は親が出してくれるという約束を取り付けていたので、M君には労力だけ提供してくれと電話した。彼もこんな経験は初めてなので、ずいぶん勇気がいったことだろうが身の危険を承知の上でならという条件で承知してくれた。何か人と違うことをするには危険はつきもの、たとえ白木の箱に納まって帰ってこようが、バケて出てくるつもりはない。

 刹那的な生き方の僕には守るべきものがあるでなし、生命保険さえ掛からないこの身体にそれほど未練はないのだ。こんないい加減で投げやりな障害者を伴った旅行がどんなに大変なことか、わが友人はまだ知らなかった。泊まり掛けの旅行となると勤めを持ったM君にはゴールデンウイークに行くしかない。少しでも人ごみを避けようと、行く先は大阪に決めた。
 聴きたいジャズのコンサートもあったし、パソコンの周辺機器も安く仕入れてきたかったのだ。それに「みんな行楽に出払って、都会は空っぽ。よって交通機関もホテルも予約なしでいけるだろう。」と践んだのだ。この判断の甘さを予感させる出来事があった。コンサートの予約の電話をかけてもらったところ、すでに売り切れとの事。しかし、もう予定は変えられない。

 さあ、出発だ。五月二日の夕方六時頃、親父の運転する車で高松港を目指した。本当は引田駅で列車に乗せてもらい、高松駅で友人M君とおちあう手はずだったのだが船に乗るときのことを心配して送って来てくれたのだ。県営桟橋に着くと、待合所は別府行きの便に乗る客でごった返していた。この光景は、それでなくても心配していた親父の不安をつのらせるのに十分だった。
 それとは対照的に僕の心には、自分も旅行者なんだという実感が急激にわいてきたものだ。やがてやってきたM君も、この混雑ぶりにはびっくり。僕が「この便じゃない」と言っても、ざわめきにかき消されて聞こえやしない。そして、その列の中の人が「お先にどうぞ」なんて言ってくれるものだからすんでのところで別府へ行く羽目になりそうだった。

 切符売り場で聞いたM君は、初めてそのことに気付き、僕の車椅子を横っちょに押して行ったのだ。そして、「船員にチップでも渡さんといかんのとちゃうか」と言う親父を説得して帰らせた。「そんなこと当り前なんだから」と言う彼の言葉には、尊敬の念をおぼえたものだ。しかし、これは身内の者でないから言えるのかもしれない。
 船に乗る前にトイレに行くことにした。県営桟橋にはちゃんと障害者用のがあるのだ。M君のおっちょこちょいな一面をかいまみたのはこのときだった。明りを点けるスイッチと非常用ボタンを押し間違えて、大きな音でブザーが鳴りだしたのだ。慌ててしまって僕ごと普通のトイレに逃げ込んだM君を「誰か来てくれたら悪い」と、元の場所に引き返してもらった。

 まもなく駆けつけてきた係の人は気さくに話しかけてくれ、ブザーを消し、ライトを点けて立ち去った。ホッと一安心した反面これからはむしろ僕の方があれこれ指図した方がいいかなとの思いが心をかすめたのも事実だ。さて、用足しにかかる。溲瓶があればなんとか自分で出来る(ただ後始末に手助けがいる)けれど、時間が掛かるのと容器がかさばるので、ビニールの袋で間に合わすことにした。
 これだと、車椅子に座ったままでできるし、たとえ障害者用のトイレがなくても、極言すればどこででも可能なわけだ。ただ自分でやるには中身が逆流してパンツがビショビショになる危険性が高いことになる。ということでM君に介助してもらうことにした。

 なんとかそれも済ませて待合所に戻ってみると、いつの間にか大勢の人たちが行列になっているではないか。順番を待っていたら乗れないかもしれない、これはヤバイと整然と並んでいる人々の横をすり抜けて、長い桟橋を「はぴねす2」までダッシュ。割り込ませてもらって船の入口まで行った。いちばん心配していた階段はない。他のお客さんもゆずってくれ、船内に入ることが出来た。「空いてるときなら、かいて下の客室まで行ってもらえるんだけど、今日はここで我慢して。」ととおされたのは、入口のすぐそばにある談話室のようなところ。
 そこは、客車のように細長く、パイプ椅子と小さなテーブルが数組、それにゲーム機が二台置いてあり、真ん中の通路には毛布が敷いてあった。僕の車椅子が、入口に近いゲーム機の前に案内された後、しばらくその船室の扉は閉じられていた。「楽勝だネ。」なんてM君と話しながら出航を待っていると、やがてその扉が開けられ次から次へとお客が入って来るではないか。見る間に空席はなくなり、毛布の上に座り込む人で通路もいっぱい。ゲーム機には荷物が山積みされた。

 フィリピンのフェリー事故を笑えない状況が、この豊かな国にあったなんて驚きだ。この便にしたのは、M君の運賃をなるだけ安くあげようとの心遣いからだった。噂にはきいてたけれど、こんなにひどく混むなんて想像すら出来ずM君の言うとおりにしたのだ。「はぴねす2」は詰め込めるだけ乗客を詰め込んで、定刻をだいぶ遅れて出航した。港の灯が遠ざかってゆく、普通ならセンチメンタルな場面なのに、この混みようではそんな気分にひたる余裕もない。
 帰りは絶対ジェットラインにしようと心に決めた。この船に乗る途中で、桟橋にジェットラインの船が係留してあり、乗り口に段差がないことを確認してある。これは徹夜を覚悟しなきゃと思っていると、ゲーム機に荷物を置いた客が菓子をわけてくれた。公共の交通機関にしたのは、一つにはこんな見知らぬ人とのふれあいを期待してのことだったのだ。それも出来れば若い女性との「ふれあい」を期待していた。

 菓子をくれたのは、女性は女性でも中年のオバサンだった。贅沢を言っている場合ではない。ひといきれで暑い船内に喉も渇いたことだし、売店でジュースと週刊誌を買ってきてもらい、二人で有難くそれを食べながら時間を潰すことにした。そのうちに「はぴねす2」は土庄に寄港した。そしてただでさえ満員なのに、さらに数人の乗客を詰め込んでゆく。我々の部屋はいっぱいで彼らがどこに入ったのかは分からない。
 深い夜のしじまの中を、再び船は走っていた。座席を確保できた人は机に凭れて、通路の人はそのまま毛布の上に横になって眠りはじめた。しばらくしてトイレに行ってきたM君は、なんとトイレにも毛布を敷いて数人が座っていることを報告してくれた。どうやらとんでもない計画だったことを二人は感じていた。お互いにお互いの不明を謝って、それを紛らすためにわい談にふざけながら、眠れぬ夜を過ごしたのだ。それでもいつの間にかウトウトしたりしていた。

 こうして、神戸に着くまでの長い船旅は続いた。午前四時に神戸港を発ってからは、次第に明けてゆく船窓からの眺めに見入っていた。特に日の出の少し前、藤色に染まった靄の中を軽快なエンジン音を響かせて進んで行く気分は、まるでアラビアン・ナイトを初めて読んだときのようだった。その空飛ぶ絨毯は、湾外に錨を下ろしている巨大な貨物船の間をすり抜け、大阪港に入ってゆく。防波堤で釣竿を振っている人たちもいる。こんな朝早くから浚渫船が動いている。連休だとはいっても都会は休んではいないようだ。
=つづく=

その2
 さていよいよ弁天埠頭に着いた。ここも、やっぱり段差はなかった。ただ、出口は階段のない別のゲートまで、係員が案内してくれた。駅までの道順をM君が聞いてきてくれている間、僕はもうすっかり明けきった朝の冷たい空気を吸っていたのだ。やがて、M君がメモを片手に戻ってきて、弁天駅に向かって歩き出した。
 これからどんなハプニングが待ち受けているか武者振いしたくなる気分だ。弁天駅への道は、同じ船から下りた客も一緒に歩いてゆく。五時を少し過ぎたまだ車も人も少ない都会は、水平に近い角度から朝日があたり、何もかも金ピカに輝いて見えた。そんななかを、M君に押してもらった僕の車椅子は行くのだ。

 二十分ぐらい歩いて駅に着くと、まず数段の階段が立ちはだかっていた。M君が通りかかったサラリーマン風の人に声を掛けると、最初戸惑い気味だった彼らも、M君の説明するとおりに僕の車椅子を持ち上げてくれた。これで安心してはいけない。弁天駅はJRと地下鉄が乗り入れているが、いずれも高架だった。
 長い階段を見上げてどうしようかと思っていたとき、高校生の集団が近付いてきて、「上がりますか?」と訊くなり、かつぎ上げてくれた。しかも、彼らはその後また同じ階段を降りていったのだ。その自然な態度といい、手際の良さといい、香川県ではめったに出会わない生徒たちだった。

 M君と僕は感激すると同時に、前途に明るいものを感じたものだ。地下鉄に乗るときにも駅員は好意的で、日本橋までの乗換駅に連絡してくれた。電車とホームとの段差は、高徳本線のディーゼルカーのように高くはなく、M君ひとりで車両に乗せられる。しかし、なんといっても駅は階段だらけ。乗換の阿波座という駅も例外ではなく、近鉄のホームに行くまでに長い階段を四つも上り下りした。その度に駅員が手伝ってくれるもんだから、二人分の料金が百十円では申し訳ないと思ったほどだ。
 でも、そのときにひとりが「この車椅子は軽いナ。あのモーターのついとるヤツ、あれは重いで。梅田から乗って来る人がおるねんけどな」と話してくれた。ということは、車体の重さだけで六十キロはある電動車椅子で、この階段ばかりの地下鉄を利用している豪傑がいるということだ。

 実は、僕も電動車椅子のまま引田駅からJRに乗せてもらうことがあるが、なるべく駅舎側から出る列車を選んだり、親はもちろん近所の人に駅までついてきてもらいディーゼルカーに乗せるのを手伝ってもらっている。だから、大阪のその豪傑が地下鉄に乗せてもらえるようになるまでに味わった苦労が、容易に想像できるのだ。
 大阪の人々は、そういう障害者を見慣れているせいで親切に感じられるのかもしれない。いまその恩恵を受けている、旅人としての自分がいて、障害者が街に出ることが決して自分だけのためではないことを、身をもって体験させてもらった気がした。

 さていよいよ電器の街、日本橋だ。例によって数人の駅員に担いでもらって地上に出た。時刻は八時まえ、船の中で食べてばかりいたせいで、それほど空腹ではないが、とにかく眠い二人だ。何はともあれ今晩泊まる宿を確保して、ひと眠りしておかなければ体がもちそうにない。
 下調べでは、この駅の近くに旅館やホテルがたくさんあるようだ。しかし、いきなり地下から眩しい街角に放り出されて、二人とも方角が分からず、ここはM君の方向感覚を信用して車椅子の行方を任せることにした。

 彼は、ときどき立ち止まり、車椅子を後向きにして段差を下ろしたり人にぶつからないよう気をつかっている様子だ。皮肉なことに盲人用の信号のメロディーが「とおりゃんせ」まるで、僕らの旅を暗示しているようだと、二人して「行きはよいよい 帰りはこわい」と歌いながら笑いあったものだ。
そんなふうに歩きながら旅館を探していた。予定も決めず、いつ帰るかさえ決めない旅、自由と不安が交錯してえも言われぬ感覚だ。見知らぬ町は、二人の好奇心をそそるのに十分だった。怪しげなちらしがそこここに張り巡らされた歩道には、それが紙屑となって舞い飛んでいた。

 そんななかで、中年の男が、肩を組んで歩いていた連れの若い女の腰に手をやり、女もただ笑っている光景も、古びたアーケードの商店街で縁台将棋を見物している人の中に、白人の青年が混じっていることも、この街では取り立てて珍しがるほどのことではないのだろう。
 車椅子に乗った僕もこの街の一部として溶け合っているようだった。そんなことを考えながら、ホテルを探し歩いたが一向に見当たらない。しょうがないモーニングでも食って作戦を立て直すことにした。そして、近くにあった喫茶店に入ろうと、M君が先に店の様子を見に行ったのだ。

 やがて戻ってきた彼が、しょんぼり言う。「車椅子の連れがいるって言うたら、断られてしもた」人にもよるが、こんなときは介助してもらっている側よりも、介助している側の方がショックが大きいようだ。M君も車椅子を押しながら、暫くは店の人の不親切をボヤくことしきりだった。「気にしない、気にしない、世の中いろんな人がおるんやし、きっとあの店の人やって、目的があるけん生きとんとちゃうかな。
 第一あんな人がおるけん、人に親切にされたとき余計に嬉しいんだしネ。それに、入ってもいいかどうかなんてきかずに堂々と入ってたら、きっと出て行けとは言われんかったんとちがう?」M君にこんなことを言ったとしても、読者の方々には僕を買い被らないように。なるべく立腹せぬようにしたいという処世術を身に付けているだけのことなのだから。

 そうこうしているうちに、周りの看板がけばけばしくなってきたのに気付いた。どうやら歓楽街に足を踏み入れてしまったようだ。二人とも独身のこととて、こういう所に来ると急にはしゃいでしまうのだった。でもネオンもついていない朝の歓楽街は眠っているようで、そんなに喜ぶほどのことはない。
 地図で見るとどうやら目的の方向とは逆に歩いてきたようだ。それがわかったら急に腹が減ってきた。焼肉屋の看板が目に入ったのでのれんをくぐった。ここでは断られることもなく、威勢のいい声で迎えられた。ひとまず安心。

 さて、メニューを選ぶだんになってはたと困った。壁に張ってある品名を見ても、実物がどんなものだかわからないのだ。実は、焼肉屋に入ったのはこれが初めて。『カルピ』『タン』『ミノ』‥‥名前は聞いたことがあるけれど、どんなものかは知らないという田舎者の二人。
 こんなときは店の主人に任せればいいものを、知ったかぶりして『ミノ』を注文したのだった。そこは、テーブルの真ん中がコンロになっていて、自分で焼くようになっていた。『ミノ』がきてそのコンロにかけ焼くのだが、すぐ炎をあげて肉が燃えるのだった。M君も焼き方を聞けばいいのに、真黒になる肉と最後まで格闘していた。
 タマネギもピーマンも真っ黒。「こんなん食べたら癌になる」と言いながらそれでも我慢して食べた。でもさすがは歓楽街の中の焼肉屋、ごはんもどんぶりに山盛り、肉も量が多くてとても食べ切れない。エネルギーも補給したので再びホテル探しに出かけた。

また、日本橋の駅の方へ逆戻りだ。例によって「とうりゃんせ」の歌を歌いながら‥‥この頃になると人通りも増えて、だいぶ都会らしくなってきたようだ。連休中とは言えやはり都会は空になっていないようだった。
 何があるから人は都会に集まるか、不思議で仕方がない。依然としてそんな疑問を抱きながらまた見覚えのある場所に戻ってきた。日本橋の駅の入口だ。ここから南へ歩いたのがそもそもの間違い。本当は、北へ向かわなければならなかったのだ。

 少し歩くと道頓堀川にかかる橋、もう少し歩くと旅館やホテルが立ち並んでいた。M君と僕は、これだけあったら一軒くらいは空いているだろうと、安心したが、それは早計。片っ端から訪ねた旅館は、すべて満室。やっと六軒目で「修学旅行用の予備の部屋なら空いてます」と言われ、そこに泊まることにした。もちろん、バス、トイレなし。エレベーターはなんとかあったが、部屋に入ってみると天井も壁もシミだらけ、テレビさえなく主人が後から持ってきた。カプセルホテルに泊まる覚悟でいたので、雨露さえしのげれば文句はない。さっそく、布団を敷いて眠ることにした。
=つづく=

その3
二時間くらい寝て、十二時近くに二人とも目が覚めた。「大坂まで寝に来たんとちがう」ということになり、第一の目的であるショッピングに出かけることにした。焼肉屋でたくさん食べたので、昼食にはまだ早いようだ。僕が求めているのは、『拡張メモリーボード』と呼ばれる物で、一段と多機能になったワープロ・ソフトに対応するためパソコンの記憶容量を増やすために用いる。
 要するにゲジゲジみたいなICやLSIを配線した基板なのだ。しかし電器の街とはいっても、エアコン、オーディオ、ワープロといった商品がほとんどで、パソコンの本体を取り扱っている店もあまりない。ましてやその周辺機器ともなると、品名を言っても分からない店員がほとんど。それに、僕の言葉を通訳してくれているM君にパソコンの知識がなく、ときどき頓珍漢なことを言うので話はますます混乱してくる。

 そうやってあちこち探し回り、五軒めの店でようやく「あそこならあるだろう」との言葉を聞いた。もう二時過ぎだ。暑さにも限界を感じ腹も減っていて、その店に行く前に喫茶店で遅い昼食をとることにした。空腹を満たしたついでに冷たい飲み物でのどを潤し、汗もひいてようやく人心地ついた僕らは、先ほど教わった店に向かった。
 そこは上新電機の「コスモランド」という六階のビル。自動ドアを入ると、目の前に『四階に於て一太郎バージョン4のデモ中』と書いてあった。そのことを告げると、早速M君は近くのエスカレーターに乗ろうとした。車椅子のままエスカレーターに乗ったのは初めてではなく、一段目の衝撃さえ我慢すればあとは問題ない。が、今回はどうも様子がちがっている。

 衝撃は続けざまに起こり、車椅子はいっこうに上がっていかない。M君があわてて車椅子を下げた。エスカレーターの昇降する部分の幅が狭く、後輪が両側の段でないところに乗り上げていたそうだ。「大丈夫ですか」見ていた店員が駆け寄り、エレベーターまで案内してくれた。四階に着くと、そこは僕にとってのパラダイス、雑誌でしか見たことのないパソコン・ソフトが棚にずらりと並べられていた。
 電子手帳に書いた品名を見せると店員は一発で分かってくれた。「もっと安いノない?」と訊いたが「一太郎バージョン4の機能を百%引き出すならジャストシステムのものをお勧めします」とのこと。定価に消費税を足すと九万円を超えるものを「香川県から来た」と言ったら、八万ちょうどにしてくれた。

 これで大阪まで来た甲斐があったと、そのときは喜んだのだが、あれから四カ月経った今では、その値段の半分以下でより多機能な製品が発売されていて悔しい思いをしている。ともかく、これで大阪にきた目的の一つは達成した。あまり大きい荷物なら、宅配便で自宅に送るつもりだったが、それほどでもないので、ひとまずホテルに置いて来ることにした。
 しかしそのころになると、少しずつたまっていた便意が、尿意と重なって下腹が重たくなっていた。このままホテルに帰っても和式の便所では出来ない。そのことは言わずに、M君に公園へ行くように頼んだ。高松なら、車椅子用のトイレのマークをわりとよく見かける。が、気をつけていたにもかかわらず、大阪に着いてからはまだお目に掛かっていなかった。

 それで公園ならあるかもしれないと思ったのだが期待は見事に裏切られた。仕方がないM君に言って病院を探すことにした。道行く人に、休日でもあいているだろうと教えられ、行ってみたらそこは精神病院。本当なら外科がよかったんだが、「三谷さんにはぴったり」と言うM君の言葉に半ば納得したりして、なかに入った。こういうときは車椅子に乗っている者の強味で、ドンドン奥へ入っていっても誰もとがめない。
 しかし案の定、車椅子用のトイレはなく、M君は落胆した。でも、洋式トイレならなんとか出来るのだ。ドアを片っ端からあけていってもらった。そして最後にあけた便所のなかが待望の腰掛け式便器だった。便所で歓声を上げる僕たちを誰かが見ていたら、紛れもなくここの入院患者に見えただろう。

 M君に座らせてもらい、体がずり落ちないようにそばにあった大きなごみ箱を置き、足と壁の空間を塞いでもらった。これで、万事解決。余計なものをすべて放出して、本当なら気分爽快な筈なんだが、お尻を拭いてもらうときはさすがにM君に悪いなと思った。シャワー式のトイレなら、彼にこんなことまでしてもらわずにすんだのだ。
 障害者が外出することのなんと厄介な社会か・・・。ともかく、ハードルは一つ越えた。M君と僕は、本当に清々しい気分でホテルへの道を辿っていた。その途中の歩道に、段ボールの上に寝そべっている若者がいた。「あんな人の体を三谷さんにわけてあげたいなぁ」と、M君はしみじみと言った。「いやー、彼のような存在を認めている社会って、けっこうイイんじゃないの」と思ったが、黙ってうなずいていた僕だ。

 さて、買物をすませ四時ごろホテルに戻った僕たちは、真っ先に加藤汽船に電話して、明日のジェットラインの座席を確保した。M君の「もう一日いたらどうか」という提案も断わり、明日の夕方の最終便で帰ることにしたのだ。M君の体力回復のために一日は休ませてあげたかったし、何よりもまた無理してギューギュー詰めの夜行便に乗るなんて真っ平だったけれど、ジェットラインは予約する必要もないほど空いていたようだ。
 もちろん、車椅子で乗ることも言ってもらった。予約をしたまでは良かったのだが、大事なことを聞き漏らしたことを後で後悔するハメになるとは…。それはさておき、部屋に荷物を置いてきたM君が、「今度はどこへ行こうか」と言うので、「しんどうなかったら」と言いつつ、もう一度雑踏の中に連れ出してもらうことにした。

 大阪に来たもうひとつの秘かな目的は、『石鹸の国』へ行くことだった。三十二歳にもなってセックスの経験もないのでは、あまりにもみじめに思える。いくら自分の身の回りの始末も出来ないような障害者とはいえ、欲望は人並にあるのだから、一度ぐらいは体験しておきたい。年金が出る度に車椅子でソープランドへ出かけている人の話とか、ソープ嬢は障害者でもやさしくしてくれるという話を聞いていたので、そのへんの心配はあまりなかった。
 問題はカネ。何しろ、そういう所に行くと帰りの運賃まで心許なくなってしまう。そのことをM君に正直に言うと、「お金なら貸してあげるけど、大阪はこわいけん・・・」と、あまり乗り気ではなさそう。カネだけまきあげられて何もさせてもらえなかったらということを気遣ってくれているようだ。

 僕としては、それも体験のひとつとしていいではないかと思える。しかし僕には僕で、別のわだかまりがあった。これが最初で最後になるかもしれない貴重な体験を、ビジネスとして割りきっている相手に委ねることだ。自分で自分がいやでいやで堪らないにもかかわらず、女性に愛されたいと願っているムシのいい思いがある。
 こんな醜い自分でも、いつか身も心も包み込んでくれる女性に出会うという夢にも似た期待がある。それに、後腐れのないセックスは、裏を返せばなんにも残らないことになり、ケチな僕にはカネのムダ使いだとしか思えないのだ。たとえ傷ついても、思い出に残るようなカタチにしておきたい。刹那的生き方をモットーとする人間にしては、なんと矛盾に満ちた考え方だろう。

 ぼちぼち人が現われるようになったホテルの廊下で、M君と僕は二十分ほど議論した。そして、それぞれ別のことを考えて、ソープランド行きをやめる結論に達したのだった。その代わりに、ビデオソフトを買いに行くことにした。独りでそんなものを見ているのも、みじめには違いないが、せめて数回は興奮させてくれるだろう。
 実は、僕の持っているビデオというのが、親父のをぶんどったβタイプのもので、ソフトをレンタルするのも困難なのだ。天罰てきめんというところだろう。ということで、二度目のショッピングに出かけた。

 もうこのころになると、付近の地理が大体分かってきだしたので、車椅子の行く方向は僕が指さして示すようになっていた。M君も、そのほうが気が楽だと言う。彼にしてみれば、道路の凸凹を避けることとか、車椅子が人にあたらぬように進むために神経を使い、地理を覚える余裕がないらしいのだ。その点ただ乗って景色だけ見てりゃいい分、僕の方が早く覚えるのは当然といえる。
 通りには相変わらず人があふれていた。それぞれに違う目的を持った人間がよくもまあこれだけ同じ道を歩いているものだ。言葉を交わすことすらなく、ただ一瞬おなじ時間と空間をすれ違うだけ。都会の孤独を味わっていた。でも、いやではない。人と人とがお互いに監視し合っているような田舎に、どっぷり身を浸している者にとって、こういう突き放された環境は羨望すら憶えるほど魅力的なのだ。

 やがて、若い女の子たちの集団に出っくわした。M君が、その中の一人にこれは何の行列か聞いた。もうすぐここにダウンタウンが来るそうだ。そしてさらにM君がファンなのかと訊ねたところ、「好きじゃないけど、みんなが行くって言うから・・・ 」とのことだった。僕は彼女たちの群から遠ざかろうと、M君を急かしていた。
 いくら可愛いギャルだったとしても、自分の意見を持たないそういう人間には、無性に腹が立ってくるのだ。せっかくの自由を自らの手で放棄している気がするからかもしれない。自由というのは、孤独なことなのだ。
=つづく=

その4
 さて、βのビデオを求めて、再び放浪の旅が始まった。レンタル・ビデオ屋ならともかくソフトを売っている店さえ少なく、そのうえβとくれば探すのは至難の技だ。裏通りのうす汚れた建物の五階まで、車椅子が入りかねるようなエレベーターで上がったり、なぜだか二階までスロープを設けてある人気のない雑居ビルに入って、死臭みたいなのを嗅いで飛び出してきたりと、刑事ドラマさながらのスリルを味わってしまった。
 こうして一時間ばかりミナミの町を練り歩いた挙げ句、とうとうそれを売っている店にたどり着いた。その店の主人が出してきたポルノ・ビデオは四本、やはりβは売れないから僅かしか置いてないと言う。なぜ日本人はかくも同じ色に染まりたがるのだろうか。ともかくその四本のうちでタイトルがいちばん穏やかなのを買った。

 ホテルに帰ってからM君にその理由を話すと、M君はうなずくことしきりだったっけ。つまり、セクシーな写真入りのカバーさえ取り去れば、誰に見られてもトボケていられるというわけ。こういうことにはかなり知恵が働く僕である。もっとも、こうしてバラしてしまったからには、もう二度とこのテは使えなくなるが。
 そのビデオ・ショップを出た頃には、日はとっぷり暮れていた。そろそろ夕食にしようということになり、僕らは裏通りに面した「朝日食堂」という店に入った。そのときは他に客はおらず、M君が僕の乗る車椅子をなかに入れようとしたとき、女将さんらしい人が出てきて、テーブルの前までの道をあけてくれた。
 
 食堂という名のとおり、そこは近くの人々が気軽に食べにくるといった感じで、そんなに広くはない。壁に張ってあるメニューを見ていると、先ほどの女将さんがお冷やを持ってきた。「なるべく食べやすいモンがええやろから、オムライスなんかどうです?」「このおばさん、よー分かっとるな。」と思いつつ、喜んで諾いたものだ。
 棚の上の小さなテレビは、リクルート事件での誰かの証人喚問の様子とか、北京の民主化要求デモの盛り上がりを伝えていた。どうもここは家族でやっている店らしいなと思ったりしながら、料理のくるのを待っていた。中年を少し過ぎたぐらいの男性が、調理場でご飯を炒めているのが見えている。その前に立ち、さっきからこちらを見ている二十四~五歳の女性はここの娘だろうか。

 それにしても彼女の僕への視線がちっともいやでなかったのは、若い女性だからというだけでなく、その視線にたっぷりの微笑みが込められていたからだろう。 目が合ってしまったとき、我慢しきれずに目を外らしてしまったのは僕のほうだった。それほど、彼女の笑顔には屈託がなく眩しかったのだ。やがてオムライスがきた。猫舌の僕はM君に先に食べてもらうのが常だ。
 そのうちに、おぼっちゃまのような僕の口でも食べられるようになったと、M君が左手をすけつつスプーンを口に持ってきてくれるのだ。いつものようにそんなことを何度か繰り返していると、先ほどの若い女性が小皿を持ってきてそっと置いてくれた。これに移せということらしいのだ。僕らは感激して頭を下げ、それを使わせてもらった。口の周りにケチャップを塗りたくっているのを見てだろうか、その後も彼女は一段とにこやかに見守ってくれていた。

 その食堂をあとにしてから僕らはまっすぐホテルに戻った。これで大阪にきた目的は十分果たせたのだ。こういう胸のワクワクするような思いをいっぱいした日は、いい夢を見られそうだ。道頓堀河畔をそぞろ歩く宿泊客たちの下駄の音を耳にしながら、M君と僕は深い眠りに落ちていった。翌朝六時ごろ目が覚めたのも、下駄の音と話声のためだった。こんなに早く起き出すのは田舎から出てきた客が多いにために違いない。
 どうやら、僕らと同じ考えでこの大阪にやって来た人は、予想以上にたくさんいたようだ。しばらくしてM君も目覚め、きょうの行動を開始。浴衣から服に着替えさせてもらいながら「きょうは予定もないことだし、ゆっくり街を見てまわろう」と話し合ったりしていた。ホテルの食堂には、やはり大勢の人が集まっていた。ここへ来てから、他の泊り客と顔を合わすことがほとんどなかった僕らだ。

 子供連れの若い夫婦あり、フルムーンのカップルあり、父と娘らしい二人連れあり、様々な人々が混じりあってテーブルについていた。そんななかで、男二人、しかも片方は障害者といういたって色気のない僕らの存在に、人々は一見無関心を装っている。それにくらべて僕ときたら、辺り構わず視線を投げかけて、はしたなさの極致。
 一緒に居たM君は、さぞ恥ずかしかっただろう。そんな恥さらしなマネをしてきたのは、後でこんなふうにレポートしたかったためだ、というのは言い訳に過ぎない。そこでごく普通の朝食を摂り、洗面、髭剃りをすませたのが午前九時少し前わずか一日だったけれど、根城として十分活用したこの大阪観光ホテルを去ることになったのだ。

 見送りに出た主人の、「天気もええことやから、ゆっくりあちこち見てきやはったらええ」の言葉を心地よく背中に受けながら・・・。きのう地下鉄(ニュートラムというらしい)で日本橋に着いてから、駅よりも南側を歩き回ったため、地理がのみこめはじめた場所へまたぞろ行ってしまう。千日前のゴミゴミした盛り場に足を踏みいれてみたり、錆びたアーケードのある黒門市場をのぞいてみたり、あてどなくさまよい歩いていた。
 M君はもうすっかり僕の足になりきって、僕の指さす方へ車椅子を押していってくれる。きのうの食堂の娘さんのことなど話しながら、弥次喜多コンビの二人旅が続く。日頃の行いが良いせいかどうか、この旅行の間じゅう好天に恵まれた。寒くもなく暑くもなく、紋切り型の表現だが絶好の行楽日和だった。

 そこで、二人のどちらからともなく言い出したのが、このまま歩いて大阪港まで行こうということ。電車に乗ったのではあまりにもあっけないというのが一致した意見だった。どうやら、M君もこの旅行の目的を理解してくれたようだ。そのうちに、ナンバの高島屋が見えてきた。あいにく工事をしていて、遠回りしなければならないので入るのはやめた。もう少し行くと、ナンバCITYだ。
 ここらでトイレに行かなければなりない。が、ここにもやはり身障者用のはなかった。またビニールの袋で間に合わせた。こんなふうにこの『大阪奇行』は、トイレと食事の話題に終始しているが、障害者が街に出かけるのを妨げている最大の要因はこの二つかもしれない。今度は、難波の駅ビルの中の喫茶店に入ってみることにした。

 トイレなどの施設は整備されていないものの、店員さんたちの愛想がよいのは、大阪の特徴だろう(例外もあったが)。ここでも入口のドアを全開にしてくれたり、椅子を一つどかしてくれるなど親切な応対だった。まだ十時過ぎだというのに店は混んでいて、ついに相席を頼まれるまでになった。やってきたのは七十ぐらいのおばあさんだ。丁寧な挨拶をしたあと、彼女はしばらくM君が僕に食べさせてくれる様子を見ていた。
 そして、少しずつ僕たちのことを聞きはじめたのだった。聞かれるままにM君が、二人が友人であることとか、どこからどういうふうに来たとかを話すると、「兄弟でもないのに、ようしてあげはるなあ。」と感心していた。それから彼女は、自分の孫にも障害を持つ幼い女の子がいて、これからその子に会いに行くと話してくれた。

 しばらくその孫娘の話をしたあと、「こういう不憫な子を持つもんの苦労は家族でないと分からへんのか世間の人は冷たいわ。」と言って窓の方に顔を向けた。ガラス張りの喫茶店からは、リュックを背負った家族連れが駅に向かい手をつないだ若い男女が駅から出てくるのが見えていた。みんなこの世に不幸という言葉すら存在していないような顔をしている。ふと、幼い頃よくおぼえたあの感覚が蘇ってきた。
 自分という魂が今ここにこうして意思を持っている不思議、それがよりにもよって不完全な肉体に宿っている不思議。そして、その肉体によって味わわされる独特な思い。そのうちに、自分がひどく遠い存在に感じられてくるのだった。おばあさんが席を立ち僕は現実に引き戻された。「気をつけてな。元気で頑張ってや」彼女は、僕の頭を撫でてから、しっかりとした足どりで立ち去って行った。

 もしかしたら孫の将来の姿を、僕にオーバーラップさせたのかもしれない。僕が、古い記憶を呼び戻されたように。M君と二人、そのまましばらくおばあさんとの会話の余韻を味わっていた。その喫茶店を出たのが十一時頃、その辺りでウインド・ショッピングを楽しんだ後、そろそろ帰路につくことにした。ジェットライン最終便が出る四時までに、時間はまだたっぷりある。しかし、なにしろ持ってきた地図には市の中心部しか載っておらず、どれが港に通じる道なのか、どのくらいの道のりなのかさえ分からなかったのだ。
 ただ、きのう日本橋までやってきたとき、電車に乗っていた時間が短かったことが、唯一の拠り所だった。とにかく西へ行けば海にぶつかるだろうというとてつもなく安易な考えだ。地図を折り畳んでもらい、いま歩いているらしい場所が見えるようにして左手に握りしめ、目印になるような建物を探してキョロキョロ。そうして、山勘も含め体中の神経を総動員して海への道を辿ってゆくのだ。

 まもなく府立体育館が見えて現在位置を確認することに成功。その入口には女子バレーボール・リーグの試合の横断幕がかけてあった。ははぁ、きのうの加藤汽船に乗っていた高校生の集団は、たぶんこれを見に来たのだろう。さらにしばらく歩いてゆくと、僕らのすぐ前方にバスが止まり、中からユニフォームを着た東芝の選手が何人も出てきた。そして、昼食をとるらしく、小さなグループに分かれて街の中に消えていったのだ。
 一人などは、僕の車椅子のすぐそばを歩いて行った。これが、もし日立の大林選手だったら、すかさずサインを求めていただろう。オリエンテーリングのような帰り道は続く。湊町の駅を迂回して複々線の踏切を越え、木津川にかかるたいこ橋を渡ったところで、ガソリンスタンドに寄って道を訊ねた。それによると、この先の交差点を右に折れ、さらにその先を西進すれば弁天埠頭にたどり着けるという。

 不安が頭をもたげてきたところだっただけに、元気いっぱいの「お気をつけて!」の声は僕らに再び勇気を奮い起こすカンフル剤の役割を果たしてくれた。スタンドのにいちゃんの言ったとおり、JR大正駅はすぐそばだった。しばらくはこの環状線に添って歩く。きのう買った、「拡張メモリーボード」とビデオテープを入れた買い物袋は自分の手に提げさせてもらった。いくら、それ以外の収穫が多かったとはいえ、元々これを買いに来たんだから、その重みを味わっていたかったのだ。
 いよいよ帰れることも確実になってきたので、急に執着心が強くなったとも言えるだろうか。環状線のガードをくぐると、前方にまた橋が見えてきた。僕の持つ地図に載っている範囲は、この岩崎橋が西の限界だ。それによると目の前の川の上流は昨夜泊まった旅館の前を流れていた道頓堀川だったのだ。川に沿って下って行けば、やがては海に到達する、この最も単純なサバイバルの基本に気が付いた僕とM君は、一瞬唖然としてしまった。不安がっていた自分達が、何か損をしたように感じた。

 家に帰ってから、もっと範囲の広い地図で見ると、その川は確かに弁天埠頭の近くに流れ込んでいた。岩崎橋までのしばらくの間は環状線と並行して歩いてゆく。そして線路は徐々に高さを下げ、道路は少し登り坂になっていた。右手には大きなガスタンクが見えてくるはずだ。
 M君の、「こんなとこに住んどる人がおるんやな。」の言葉に左を見ると、ガード下に物置のようなひとつづきの家がある。高架橋の一部のような、屋根もないその家は、きっと列車が通る度にすざましい騒音に見舞われるだろう。しかし、そんなことはなんの苦にもならないといわんばかりに、真っ白な洗濯物が五月の風に揺れていた。
=つづく=

その5
 橋を渡ってしばらく行ったところで、またまた生理現象を催してきた。普通なら喫茶店でも入って用を足せるのだが、車椅子のこととてそうもいかない。昨日のように、都合よく病院もなさそうだ。え~い、しゃあない。M君に頼んで、家と家のわずかな狭間に車椅子を入れてもらい、ビニール袋でとってもらいた。男だとこういうはしたないことも出来るが、女性の場合はこれが原因で外出できない場合もかなりあるだろう。
 しかし、男が二人コソコソと路地裏に入ってゆくのを見た人は、いったいどんな想像をしただろうか。ガソリンスタンドのにいちゃんの道の教え方は適確で、もうそれ以上訊ねる必要はなかった。が、しかし僕とM君の趣味として、若くて美形の女性には相変わらず道を訊いてまわっていた。車椅子を押しているということで、どの場合でも親切に教えてくれるのだ。

 シャイなM君も、これなら緊張せずに話しかけられるというもの。こんなに苦労させているんだから、彼にも何かメリットがないと割に合いない。という言い訳は、あまりにも見え透いているだろう。さて、いよいよ見覚えのある弁天駅だ。時刻は二時前、時間はまだたっぷりある。昨日ここに着いたとき、この中に交通博物館があるのを見つけておいたので、それを見学させてもらうことにした。
 入り口に行くとスロープが設けてあり、なんと車椅子用トイレまであるではないか。大阪に来てから初めて見た。ここの設備は良いとして、同じ敷地にある駅が階段だらけではどうしようもないじゃないかと言わざるをえない。博物館は、子供達でいっぱいだった。そんななかを三十前後の男が二人、場違いな雰囲気を感じつつ歩いてゆくのだ。

 僕の場合、脳性マヒ特有のアテトーゼ(意識とは関係なく体が動いてしまう現象)のため、子供並みの知能しかないように見えるので、まわりではそれほど違和感はなかったのかもしれない。しかし、M君が恥ずかしがっているのは車椅子を押す足どりの速さに表れていた。なのに僕ときたら、あちこちの展示棚の前で立ち止まりたがった。乗り物は昔から好きだった。それは、自分が動けないからだけではなく、機能を凝縮した美しさへの憧れもある。
 だから、たとえばSLならC六二、飛行機ならDC-八、車はセドリックというふうに拘っている。ここには、そんな機能美にあふれた機械達の写真や模型が展示されているのだから、少しでも網膜に焼き付けておきたかったんだ。こんなもっともらしい理由付けをしても「好き」ということでは、そこら辺で騒いでいる子供達と変わりはない。要するに幼稚なのだ。「好き」という気持ちは、分別のつく歳になっても抑えようがないのかもしれない。

 そうやって四十分もM君を引きずり回した挙げ句、やっと昼食にすることにした。博物館の中には食堂もあり、その日はちょうど全国駅弁大会をやっていたようだ。というのも時間が時間だけに、「幕の内」三個を残してあとは全て売り切れており、どういう物があったのやらよく分からないのだ。その売れ残りを食べた。M君が「腹はへっていない」と言うのをいいことに今まで延ばしてきたが、彼と僕とでは運動量に絶対の開きがあった。
 見る間に減ってゆくM君の弁当を見ながら、自分の思いやりのなさにほとほと嫌気がさしてきた。罪滅ぼしにはならないけれど、自分の弁当を半分彼に食べてもらいた。それでも、結局その気持ちを言葉には出せないのだった。三時を過ぎた。船は五時が最終だ。確かきのう、埠頭からこの駅まで一時間はかからなかったはずだ。今から行けば、何かトラブルがあったにせよ、その最終便には乗れるだろう。腹ごしらえもすんだ二人は、博物館を出た。

 検討外れの場所に向かっているとも知らずに、相変わらず冗談を飛ばしながら歩いてゆくのだ。国道四十三号線の高架に沿って歩くと、きのうの記憶が蘇ってきた。しかし、わずか一日半しか経っていないとは思えないほど、遠い過去のような気がしていた。「そりゃそうだろうよ。一年以上も前のことを書いてんだから。」なにか、読者の皮肉な笑い声が聞こえてきそうだが、そのときは確かにそう感じたのだ。
 今こうして記憶の糸をたどりながら書いていても、そのときそのときの情景はちっとも色あせずに思い浮かべられる。このことからも、この一日半がどれほど中身の濃いものであったかお分かりいただけるだろう。さて、弁天埠頭へ向かう道すがら、家内工業のような一軒の鉄鋼所の前を通りかかった。

 きのうは早朝だったので、閉めていたのだろう。「あ~っ、連休やのに働いとるなぁ。実は僕も、これよりもうちょっと大きな鉄鋼所に勤めよんや。ほんで、ダムとか池の水門あるやろ。あんなんを作っりょんや」M君はいつになく熱っぽい口調で語り始めた。彼が鉄鋼所勤めだということは知っていたが、具体的な内容はこのときはじめて聞いた。
 元々口数は少ないM君だったので、自分から喋るということ自体珍しく、ましてや自分自身のことを喋るのを聞いたのは知り合ってから二度目ぐらいだった。それからM君は、製品の形、製造工程、M君の仕事内容などを詳しく話してくれた。そんな話をしているうちに、いよいよ弁天埠頭に到着だ。M君が先に切符売り場に行ってくれたので、僕は建物の外でのんびり海の臭いを嗅いでいた。

 すると、まもなくM君がただならぬ表情で飛び出してきた。「こことちがう」高松では同じ桟橋の向い側に停泊していたので、ためらいもなく弁天埠頭を目指したのだった。ところが、大阪ではここから三~四キロ離れた天保山に発着するというのだ。十分余裕をもって歩いてきたはずがここにきて急に慌ただしくなった。もう歩いてゆく暇はない。客待ちをしているタクシーに乗りこんだ。
 小型車に車椅子を積む場合、トランクに入りきらず開きっぱなしになることがある。こういうこともあろうかと、車椅子の後ろのポケットに紐を入れてあったので、それでトランクを留めてもらった。五十がらみの運転手氏は好意的で、なにくれとなく手伝ってくれた。「消費税の影響もあって、連休中やっちゅうのに客足がさっぱりでんな。」ひとしきりぼやいてみせてから、我々のことを聞き「そら、たいへんだったやろ。」と、感心とも同情ともつかぬ声で言った。

 そんな暢気な話をしている気分ではない僕らだったが、M君は愛想よく運転手氏に受け答えしていた。天保山に着く二十分ほどの時間が、なんと長く感じたことか。南港に着いたとき、ジェットラインの船体は見えなかった。もう出港したのではないかと心配したM君は、タクシーから僕を降ろすとすぐ切符売り場に走った。幸い船はまだ着いておらず、彼も僕も胸をなで下ろしたのだ。
 やがて、スマートな形のジェットラインが着いた。ここの乗り場は海面からの高さが高く船の二階とはわずかの段差で出入りできるようになっている。M君が買ってきてくれたのも二階席でちょうどいいように思われたが、「高松に着いてからが大変」と言われ、一階の席と交換しなければならなかった。乗るときは三人の乗組員が狭い通路を車椅子を運び、船の一階へ下ろしてくれた。そして、「安全のため」というので、車椅子から客席のリクライニング・シートへと移された。

 船内は、まだ乗ったことのない飛行機のようで、スチュワーデスみたいなおねえさんが三人おしぼりやイヤホーンを配ってきた。乗客は、定員の六割といったところだっただろうか。もう、やれやれだ。フッカフカの椅子に身を沈めて、M君に買ってきてもらったアイスクリームをなめつつ、流れゆく窓外の景色をぼんやりと眺めていた。
 「大阪旅行もこれで終わりか」という感傷にひたりながら・・・ 旅というものは、珍しい風物を楽しむのもさることながら、むしろそれに触発されて動き出す自らの心を感じるのが目的のような気がする。商売人の街・大阪で、思いもかけないたくさんの親切を受け、僕はまたこれから生きていくエナジーを再生することが出来た。難波のあたりを散策していて、おなじ車椅子に乗った人に何度か出会った。

 あとで聞いた話によると、毎日車椅子のまま満員電車に乗って通ってる人さえいるのだそうだ。また大阪では、運輸関係の職場の現業に就くときには、車椅子の扱いもふくめて障害者との接し方をしっかり教育されるそうだ。これは、障害者が積極的に街に出かけていき、一般の人々の目にも慣れ、ふれあうことを恐れなかった結果にちがいない。
 施設的な面(便所や道路のスロープなど)では、はるかに便利な高松の場合はどうだろうか。何か催し物でもない限り、車椅子とすれ違うことは滅多にないだろう。そして障害者は相変わらず、人々の視線が痛いだの、不親切にされただのと嘆いているばかりだ。いい加減に、香川の障害者も目覚めるべきではないだろうか?求めもせず、与えられる物はないのだから。

 人々に奇異な感情を持たれないようにするまで、自然に手を貸してもらえるようになるまでに、大阪の障害者の人たちがどんなに苦労したことだろう。それを考えると、彼らの恩恵だけを受けてきたことが申し訳なく思えてくる。人々の意識を変えるということは、単に自分のためだけではなく、旅行者や、これから生きていかねばならない後輩たちに、必ずいい影響を及ぼすのだ。そんなことを身を以て体験し、考えさせられた大阪旅行だった。
 最後に、僕の手足となることに徹してくれたM君に、言い尽くせぬ感謝の気持ちを込めてこの文章を捧げる。そして、いろいろいらんことを書いてごめんなさい。今度は、北海道か沖縄へ行こうよ。

=完=

90/6~92/10

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