明日へ続く轍
一.出発
敷居際までたどり着いた。仰向けに寝転がったまま、開けっ放しの窓から空を見上げる。ところどころに浮かぶ薄い雲。今日で三日目の晴天だ。首を回して、視線を地面へ移す。土も、ほどよく乾いている。よし、これなら大丈夫。
窓ガラスに足をかけて、一気に身体を回転させる。下半身が、窓の外に浮いた。膝で宙を探りながら、少しずつ足を下ろす。固いセメントの感触。次は上半身だ。慎重に、敷居の外へずらしていく。やせた両膝が、体重を受けて、セメントの上で悲鳴をあげる。痛みをこらえながら、上半身を起こして、お尻を両足の間に落とす。着地成功。
方向を定めるために、めざす電動車椅子の姿を探す。広い庭をはさんだ向かい側の納屋の、その暗がりの中に、静かに止まっているのが見える。昨夜、父にさり気なく確かめておいたとおりだ。ぼくが、今座っている場所から、およそ十五メートル。ちょっと遠いが、行くしかない。
ゆっくり身体を倒して、地面にうつぶせになる。ずっと前、まだ小さかった弟が、ぼくを乗せた車椅子を押していて、石に車輪をとられて転んだことがあったっけ。地面に放り出されたぼく。頭から流れ出した血。叫び声が泣き声に変わって、家の方へ駆け出す弟。そんな昔の光景が、一瞬目の前に浮かんだのは、土と草の匂いを近くに感じたせいか。
いつも家の中を移動するときのように、体を横に転がし始める。平らに見えた地面には、意外に大きな無数の凹凸があって、体中をつつき、ぼくを、思わぬ方向へ向かわせる。覆うものがない顔や頭は、小さな石粒でもくい込んで痛い。でも、誰にも助けは求められない。家族が出払って、誰も訪ねてきそうにない時間をわざわざ選んだのだ。転がり続けるしかない。
やっと、電動車椅子の足元まで身体を運んだ。もう一度鳶座りして、じわじわ膝を開閉しながら、電動車椅子に真向かうように体を回転させる。あと一息。右手で肘掛けを握り、両足を力いっぱい踏ん張って、身体を押し上げていく。上がったところで身体を回転させる。暑い。梅雨の晴れ間で、車椅子で出かけるにはちょうどいい日和だと思ったが、準備だけで大変な運動量だ。なんとかお尻を車椅子の中に押し込んだときは、全身汗まみれになっていた。
電動車椅子を手に入れたのは、昭和五十三年の夏だった。朝日新聞大阪厚生文化事業団から香川県に配分された三台のうちの一台を、ぼくが使えるようになったのだ。それまで使っていた手押し式の車椅子は、ぼくの手では動かせない。誰かに押してもらわない限り、一メートルも前に進まないのだ。その上、ぼくには重い言語障害があって、自由に動くこと、行きたい所へ行きたいときに行くことを、ぼくはずっと願い続けてきた。
自分が脳性小児マヒという大きなハンディキャップを背負っているという認識は、いちばん最初の記憶のころから、ぼくの中に存在した。幼い頃は、訓練すれば運動機能が少しは回復すると教えられ、歩行器や、壁に取り付けた手摺りを使って訓練した。今は歩けないけれど、いつか歩けるようになるかもしれないという希望を、心のどこかに持っていた。
やがて、学齢期になり、ぼくの家には、就学猶予願いを出すようにという通知が届いた。当時、重い障害をもつ子どもたちには、義務教育を受ける権利さえ保障されていなかったのだ。にぎやかに通り過ぎていくランドセルの列を、部屋の窓から見るたびに、ぼくも学校に行きたいと、母に訴えた。自分の障害が重いということは、弟や妹と比べてみても明らかだったが、自分で選んだわけではないハンディキャップのために、一人だけ家にとり残されているのが、納得できなかった。
いや、それよりもしつこい新興宗教の勧誘からも逃れたかった。彼らは、初め、母の苦しみを救うよりどころになるからと、入信を勧めに来た。しかし、それまでの人生ですでに様々な辛苦をなめてきた母は、人も神も救いにはならないという断固とした考えをもっていた。
連日の勧誘を、母は毎日はねつけ続けた。大勢で勧誘に来る人たちの言葉は次第にトゲを含むようになってきた。脅迫じみることもあった。捨てゼリフを吐いて彼らが引き上げた後、傷ついた母は、涙をこぼした。
「お前がこんな身体だから…」
と、ぼくに怒りをぶつけてくるようになった。家の中で過ごす毎日は、ちっとも楽しくなかった。学校へ行けば、何か、わくわくするようなことがあるかもしれない。母さん、ぼくは、学校へ行きたい!
養護施設への入所は無理だった。身辺自立のできていない者は、母子入園しか認められていなかった。幼い弟や妹がいる我が家では、絶対に不可能だ。地元の小学校へ通うしかない。
ぼくの願いをかなえるために、母は一人で行動を起こした。県庁へ、町役場へ、何度も足を運び、頭を下げて回った。小学校へもお願いに行った。最初は、相手にもされなかったらしい。
「しゃべれんし、文字も書けんのに、なんで学校にやるんですか?」
それが、教育委員会の最初の答えだった。周囲の協力も得られなかった。「動けん子を学校なんかに行かせて、どうするつもりだ」という冷たい視線の中で、母は、粘り続けた。そして、一年遅れて翌年の四月、ぼくは小学校の門をくぐることができたのだ。
それから六年間、母といっしょに、ぼくは小学校に通い続けた。珍しそうに、ぼくを遠巻きにして眺めていた級友たちが、まず、ぼくの理解者になった。母のバイクで学校に着くと、荷物を持つために、誰かが付き添ってくれるようになった。高学年になると、教室から教室へ、ぼくの身体を抱えて運んでくれた。家にもよく遊びに来た。修学旅行に行けたのも、代わるがわる介助してくれた友だちのおかげだった。先生方や、ほかの保護者たちも、次第に理解を示してくれるようになった。学校は、本当に楽しかった。
しかし、ぼくの学校生活は、小学校卒業と同時に終わった。母の介助で通学するのは、小学校が限界だったのだ。中学校に進みたい気持ちはもちろんあったけれど、重度の障害をもつ身でこれ以上の無理を言うべきではないという、世の中を少し知った者としての分別が、十二歳のぼくの中に芽生えていた。
六年間をともに過ごした級友たちが、詰め襟やセーラー服に身を包んで、新しい世界へ進んで行くのを、ぼくはただ見送っていた。その頃には、自分の体の機能が訓練によって回復することはないと気づいていた。友だちとは全く別の、我慢するだけの人生をこれから送っていかなければならないのだと、絶望的に確信した。いったい、ぼくは、何のために生まれてきたのか。これからの何十年かを、時間が過ぎるのを待ちながら暮らすのか。本当に、このままどうすることもできないのか。いつまで待っても、奇跡は起こらないのか…。
このままでは、社会から、完全に取り残されてしまう。無為に日を過ごしてはならないというあせりを常に感じていた。ラジオ工学の通信教育を受けてみた。アマチュア無線の勉強もした。小学校で学んだことだけでは足りないと感じて、中学校の教科書を一人で読み、試験を受けて、卒業資格を取った。高等学校の通信教育も受けた。
家の中にいながら社会の動きをつかむには、ラジオが一番手軽だった。短波放送も受信できる高性能のラジオを買って、世界中の放送に耳を傾けた。小説・雑誌から、百科事典にいたるまで、辞書を引きながら、手に入るあらゆる書物を読みあさった。自分の中にたまった思いを表現したくて、電動タイプライターも叩いてもみた。
しかし、何をやっても、満たされはしなかった。弟や妹が、ぼくを追い越して、中学から高校、大学へと進み、自由に生きているのも、腹立たしかった。ぼくも、外の世界へ出たい。この世に生まれてきた以上は、ぼくだって、この社会に参加したい。
小学校卒業以来およそ十年間の月日は、自分の部屋にこもったままで過ぎていった。二十歳をいくつか越え、かつての同級生の多くは、職業をもつ社会人となっていた。母親になったという便りも届くようになった。このまま、周囲に遠慮して、閉じこもったまま人生を終わらせるわけにはいかない。ぼくも、何かを始めたい。外へ出よう。電動車椅子は、そんなぼくの気持ちの高まりに合わせたように、やってきたのだ。
我が家にそれが届けられても、庭の中でしか乗れなかった。道に出ようとすると、必ず父か母が後からついて来て、あまり遠くへ行くなと言う。でも、家の周りを走らせるだけでは、電動車椅子をもらった意味がない。もっと遠くへ行きたい。一人で自由に行きたい。ぼくの気持ちはだんだん抑えられなくなってきた。しかし、そんな思いを見透かしたように、両親から、一人で出かけることを禁じられてしまった。
「もし、何か起こっても、自分の力では何もできん。危ない」
「そんな車椅子が道をうろついたら、車の人に迷惑がかかる」
それが、二人の口癖だった。障害者が町に出て、なぜいけないんだと、いくら言っても受け付けてくれなかった。ぼくにとっては「当たり前」のことが、他の人には「突飛な」ことで、両親もまた、古い常識の中で生きていたのだ。ぼくが生まれてから、ぼくのために、普通の母親以上の苦労をし続けてきた母は、もうこれ以上波風を立ててほしくないと願っていたのかもしれない。
自由に行動したいというぼくの願いは、たぶんわかってくれていただろうと思う。ただ、世間の目、僕自身の身に降りかかるかもしれない危険、そういったことへの不安のほうが、ぼく自身の思いよりも重かったのだ。
押し問答は、結局、ものわかれに終わった。ひとりになって、ぼくは、ついに、実力行使に出る決意をした。あきらめたふりをしてしばらくおとなしく過ごし、すきを見て、自分で電動車椅子に乗って、出かけてしまうのだ。手押し式の車椅子は、車体が軽いから、一人ではい上がると倒れる危険がある。しかし、重量のある電動なら、少々体重をかけても、まず倒れる心配はない。車椅子のある場所がちょっと遠いが、地面が乾いていれば、いつものように転がっていけばいい。あちこちぶつけて痛いだろうが、そんなことにかまっていては、いつまでたっても外に出られない。決心は固まった。
そして、五日たった晴れた日の午後、両親が田植えにでかけるのを待って、実行に移したのだ。
車椅子のスイッチを入れる。出発だ。庭を横切り、私道を抜けて、アスファルトの県道へ出る。舗装してある道路は、いくらか操作が楽だ。わき道にも入ってみたいが、まだ十分に慣れてはいないので、今日はこのまま県道をずっと下ってみよう。
道路は、中央が少し高くなっていて、まっすぐ車椅子を走らせるのが、結構難しい。進路を修正しながら、低速で進む。時速二.五キロメートルに設定されているので、人が普通に歩くよりも遅い。
アスファルトの上は、太陽熱が反射するのか、じりじり暑い。陽炎が、ゆらゆら立ちのぼっているのが見える。
およそ二十分くらい走っただろうか。向こうから来た軽トラックが、目の前で止まった。車の中から飛び出してきたのは、なんと、母だった。続いて父も運転席から出てきた。二人は、不思議そうな顔で近寄ってきた。
「おまえ、どうしたん」
と、言いながら、父は、土や草や汗にまみれたぼくの体を、上から下まで眺めた。母は、ぼくの服についた土ぼこりを払い始めた。そうしているうちに、ぼくがどうやってここまで来たか、思い当たったのだろう、
「おまえ、一人で来たんか」
「こんな汚い格好で」
「危ないけん、一人で出るなと言うたやろ」
母の口から、ぼくをなじる言葉がとんできた。
「車に乗せよ」
と、母は父に言った。しかし、父は母の言葉には答えず、ぼくに向かって
「一人で来たんなら、一人で帰れるだろ、もう、帰れ。」
と、言った。一人で出かけるという目標は達成できたことだし、今日のところは、これで帰るとしよう。電動車椅子を一八〇度回転させて、今来た道を引き返す。父の運転する軽トラックが、ぼくのわきをそろりとすりぬけて走り去った。
家に戻ると、庭で待ち受けていた父が、何かぶつぶつ言いながら、ぼくを手押し車椅子に乗せ変えてくれた。いつもより、扱いが乱暴なように感じられるが、まあ、仕方ない。ぼくの車椅子がスロープを上がっていくと、母が黙って勝手口を開けた。無言なのは、腹を立てている証拠だ。覚悟は初めからできている。このままではすむまい。
案の定、夕飯を食べながら、母が、また小言を並べ始めた。いつ果てるともなく、言葉は続く。ぼくは、母に反論しなかった。実は、母の声を、聞いてさえいなかった。あとに引くつもりは全くなかった。申し訳ないことに、ぼくはすでに、次に出かける目的地を、いろいろと頭に浮かべていたのである。
次の日は、朝から雨が降っていた。今日は出かけられないが、もう一押し、やっておくことがある。田植えの準備をしている母をつかまえて、ぼくは言った。
「電動車椅子を、勝手口の中に入れておいてくれ」
母は当然怒りだした。
「また一人で出て行くつもりか。あれだけ言うても、まだわからんのか」
しかし、まだまだ続きそうな母の言葉をさえぎって、ぼくは宣言した。
「納屋に置いとくんなら、また庭を転がって出ていくぞ」
これで決まった。しぶしぶ、母は電動車椅子をとりに外へ出て行った。
こうして、ぼくは、いつでも好きなときに、一人で自由に出かけることができるようになったのである。
二.冒険
ぼくが生まれた引田町は、讃岐山脈と播磨灘にはさまれた、半農半漁の小さな町だ。山から急勾配で流れ下りる馬宿川が、扇状地を作っている。ぼくの家は、扇のかなめ近くにあり、坂道を二キロほど下った裾野をJR高徳線が走っている。
ぼくが自由に外出するにあたって、母から言い渡されていたのは、この線路を渡ってはいけないということだった。何かの拍子で車椅子の車輪が線路の溝に落ちたら、ぼくの命にかかわるからだ。いなか町のことで、線路を通過する列車は一時間に一本か二本しかなかったけれど、それは同時に、線路上で動けなくなったぼくを助けてくれる人もあまり通りかからないということだ。
山裾と線路に囲まれた三角形の土地を、ぼくの電動車椅子は走り始めた。舗装している道路に慣れると、地面がむきだしの細いわき道にも入るようになった。レバーを操作することに集中していた最初のころとちがって、少し、ほかのことも考えながら、のんびりと自由を満喫できるようになってきた。
帰りが遅くなったある日、道路工事にぶつかった。工事の時間は終わったのか、通行止めの立て札はなく、機械や道具は端に片付けてあった。しかし、舗装をはがして砂利が見えている路面を見ると、車椅子で通る気になれず、少し細い迂回路へ回った。
夏の夕焼けが、見事に頭上を染めていた。車椅子を動かしながら、ぼくの視線は空に向かっていた。小さな前輪が道からはずれたのに気づかず。
あっと思ったときには、すでに体が傾いていた。道路わきの用水路に、車椅子が斜めに落ちていった。ずるずる、という感じで、とてもゆっくりだったけれど、ぼくには、もう止めることができなかった。車椅子ごと用水路に突っ込んだ、なんとも情けない姿勢のまま、ぼくは動けなくなった。
「困った」
その一言につきた。
しばらく、ぼんやりしていると、何かが近づいてくる音がした。首をねじ曲げて見ると、自転車だ。男の子が乗っている。
「おーい、おーい」
彼に向かって、そう叫んだつもりだった。しかし、男の子は、全く無関心な表情で、通り過ぎてしまった。ぼくが助けを求めているということが、わからなかったのか?
続いて、車が近づいてきたが、道にはみ出しているぼくの車椅子の車輪をよけて、走り去った。もう一台やってきた車も、そのまま行ってしまった。
「こうしてはいられない」
ぼくは、ようやく、自力ではい出さなければならないことに気がついた。このまま待っていてはだめだ。
用水路が狭かったために、大きな車輪がぼくの体を守ってくれていた。どこにもけがはなさそうだ。腰のベルトをはずし、座席から抜け出した。用水路の底を流れる水で、下半身が濡れる。五十センチほどの深さの用水路の中にいったんすわって、道路にはい上がっていった。あとは、いちばん近そうな民家まで、転がっていくしかない。
その時、
「落ちたんですか?」
と、声がふってきた。若い女性の、驚いた顔があった。泥だらけのぼくの体を見て、
「うわあ…」
とひと声つぶやいたまま、彼女は車椅子に手をかけた。ぼくの車椅子を、ひっぱりあげようとしたのだ。しかし、電動車椅子は、うら若い女性一人で持ち上げられるような代物ではない。あきらめた彼女は、ぼくに近寄ってきた。若いお姉さんに助け起こされる自分を想像して「ラッキー!」と思ったのは、不謹慎だっただろうか。だが、残念なことに、彼女はぼくには手をふれず、助けを呼ぶために、近くにある砂糖工場へ駆け出した。
やがて、四人ほどの男女がやってきた。工場の前を通るぼくの姿を何度か目にしている人たちだったので、事態を理解してくれるのも早かった。車椅子は用水路から引っぱり上げられ、ぼくはその座席に座らせてもらった。
「大丈夫か、けがはないか?」
「一人で帰れるん?」
「気をつけてなあ」
という声々に、精一杯はっきりと
「ありがとう」
と返事をして、ぼくは、家へ向かった。
家でぼくを出迎えた母は、また汚れて帰ったぼくを見て、目を丸くした。どうせどこかから耳に入るのだから、隠しても仕方がない。ぼくは、無事生還するまでのいきさつを、ありのままに話した。母は、予想通り、あきれたり、おこったり、愚痴を言ったり、しばらくしゃべり続けていた。
次の日、助けてくれた人たちのいる砂糖工場へ、母は手土産を持ってお礼に行った。
一回目の脱輪事件で、ぼくが少しは臆病になったかといえば、決してそんなことはない。まわりの人々の手を借りて、無事に帰りついたことは、かえってぼくを大胆にしたかもしれない。あいにく梅雨の時期で、なかなかドライブ日和にならなかったけれど、出かけられる日は、必ず外へ出た。
もう生きて帰れないかも…と、肝を冷やしたこともある。同じ道ばかり通るのに飽きて、山に向かう道へ入ってしまったのだ。道は次第に細く、急勾配になり、両側には、ため池やら川やら崖やらが次々に現れる。刺激がほしいとか冒険がしたいとか、普段から口にしていたが、この道の有り様は、期待を越え過ぎている。恐怖に手がすくんで動かなくなる。車椅子の操作を誤れば、池の中か、崖の下か。一人で外出する以上、危険は覚悟している、と、ふだんは大見得をきっているものの、やっぱり恐ろしい。山から無事に脱出できたときは、ぐったりして口もきけなかった。
疲れきって家に帰ると、いつものように母が待ち構えていた。ぼくは、できるだけ平静を装って(実は、今日の大冒険に興奮していたのだが)、通った場所を母に報告した。母は、不思議そうに聞いていた。この町で生まれてこの町でずっと生きてきた母なのに、思い当たる道がなかったらしい。
「たしかにため池はあるけどなあ…」
と、ぶつぶつつぶやいていた。
次の日、母は、バイクで仕事から帰ってくるなり、ぼくの部屋にとびこんできた。
「おまえ、あんな道に行ったんか!」
どうやら、母もバイクで冒険してきたようだ。
「恐ろしい、ようまあ、あんなところ…」
興奮している母を、ぼくはにやにやしながら眺めた。ただ、その山の道へは、ぼくも二度と行かなかった。
母に約束させられた三角形の中は、もう行き尽くしてしまった。田んぼと山と川しかない狭い土地を、ぐるぐる回るのにも飽きてしまった。もっと、遠くへ行ってみたい。そのためには、線路を越えるしかない。線路を越えれば、町の中心地だ。
ぼくは、また母を裏切った。線路に近づいて、深い溝を見たときは、緊張したが、ため池に比べればたいしたことはない。一気に越えて、まずは海をめざした。そのためには、国道を渡らなければならない。信号のある横断歩道を探した。
今まで通ってきた県道と違って、国道は、さすがに交通量が多い。歩道を通れば安全なようだが、この歩道には傾斜やでこぼこが多く、車椅子では走りづらい。路側帯にはでこぼこがないが、スピードをあげて走る車のすぐ脇で、しかも狭い。国道を使う距離をできるだけ短くするように、今後は道順を工夫したほうがよさそうだ。
横断歩道の青信号の短さにも驚いた。もたもたしていると途中で黄色になる危険もある。気をつけなければ。頭の中では、すでに今後の対策を練りながら、引田港に着いた。
漁船が何艘も波止場につながれて揺れていた。船の近くで、漁師が網を繕っている。堤防の上には、釣竿を持って座っている男たち。潮の匂い。波の音。車椅子を止めて、ぼくもその中の一人になった。
この車椅子が手に入って、気ままに外出できるようになった後も、言いようのない孤独感に襲われた。部屋のステレオからジャズを流しっぱなしにして、同じことを何度考え続けただろう。どうしてぼくは、どうしてぼくだけ…。生きていてもしかたがないと思いつめたこともある。こんな体で、こんな状態で生かされているのは、なぜだ? このまま、何も思い通りにならないことに苦しみながら、何十年も生きていくのか。人に「やってもらう」気まずさを笑い飛ばして、慣れたふりをして。どうして、ぼくだけ…。
海にいると、そんな鬱屈した思いが消えていくようだった。命を生み出した、ゆったりとしたよせかえしの中に、人の心をなごませる何かがあるのかもしれない。ぼくはかなり長い時間、そこでぼんやりしていたと思う。
家に帰ると、例によって母がいろいろと探りを入れてきた。ぼくは、適当に答えておいた。線路を越えたことは、そのうちバレるだろうと思いながら。電動車椅子でうろうろしているぼくは、町内ではかなり目立つのだ。「危ない」とか「家にじっとしとけ」とか、ぼく自身、直接・間接に聞かされた。母も、きっと同じだろう。「あの場所で息子さんを見た」と報告してくれる人も多いらしい。
翌日には、ぼくの裏切りは母の耳に入った。母が怒ってぼくが黙って聞く、いつもの光景が繰り広げられた。ただ、母の口調に前ほどの勢いはないように感じられた。そして、次の日から、ぼくは堂々と線路を越えた。
町へ出るようになると、ぼくの外出は、今までとは違うものになってきた。外へ出て車椅子を走らせることが目的ではなく、行きたい場所へ行くために車椅子を使うようになったのだ。自分の意思で社会に参加しているという、ちょっとした爽快感がぼくを満たした。
町へ出るということは、いろいろな人と接するということでもある。品物一つ買うにも、ぼくには大きなネックがあった。言語障害だ。
脳性マヒには、独特の外見がある。意思に反して体や表情が不自然に動くのだ。初対面の人は、たいてい、目のやり場に困ったような、そんな自分をぼくに悟られまいとするような、動揺を隠しきれない顔になる。勇気を出して話しかけてくれたとしても、次に驚くのがぼくの声だ。何を言っているのかわからず、なかなか会話が成り立たない。ぼくは、なんとか聞き取りやすい言葉を発しようとして緊張し、かえって言葉が出なくなる。家の中で過ごしていたときには、ぼくの言葉を聞き慣れている家族の誰かが通訳してくれていた。ぼくと一対一になった相手が、ぼくの言葉を理解しようとしてくれるだろうか? 無視されたり、追い返されたりするのではないか?行きたい場所はたくさんあったが、不安が先に立って、なかなか実行できなかった。
しかし、思い切ってたずねていった電器店で、そんな余計な心配はいらないということがわかった。店の主人は、最初、ぼくを扱いかねて困惑していた。ぼくは、めざすパソコンへ一直線に進み、勝手に操作し始めた。店の主人は、あっけにとられていたが、やがて、わかりにくい言葉を根気よく聞き始めたのだ。ぼくは、そこでBASICの練習をさせてもらい、大満足で帰った。やがて、なくてはならないものとして、ぼくのかたわらにパソコンが据え付けられることになる。
気をよくしたぼくは、いろいろな店をのぞいた。ただし、たいていの店には、入り口に段差がある。自動ドアをつけていない店では、自分でガラスのドアを開けなければならない。車椅子のレバーを動かすのがやっとの手では、まず無理な作業だ。
母が勤めている書店は、入り口がガラスの引き違い戸になっていた。クーラーをつけているために、入り口は締め切ってある。ぼくは、誰かが開けてくれるのを待たず、車椅子でガラス戸を引っ掛けようとした。ところが、勢い余って、そのままガラスに突進してしまったのだ。ガラスは派手な音を立てて砕け落ちた。店の奥から駆けつけて来たのは、またもや、目を丸くした母だった。
以来、ぼくは、少々暑くても、店先で車椅子を止めて待つことにした。喫茶店でも、理容院でも、店の人が出てきて、車椅子が入るのを手伝ってくれた。他の客に比べると、ぼくはずいぶん手のかかる客だ。中に入れたらおしまい、というわけにはいかない。注文したコーヒーを目の前に置かれても、そのまま一人で格闘すると、書店のガラス戸のように、グラスが砕け散るおそれがある。喫茶店の店主は、それをちゃんと見越して(おそれて?)グラスとストローをずっとささえてくれていた。理容院では、車椅子から店の椅子へ、終わったらまた車椅子へ、ぼくを移してくれた。そうやって、いやな顔ひとつせず、他の客以上の接待をしてくれる人たちに、ぼくができることといえば、心をこめて「ありがとう」と言うことくらいだ。申し訳ないという気持ちは、親切にされればされるほど、つきまとう。障害者が町へ出ようとしない原因の一つは、ここにある。
体のどこかが不自由な者は、いつも、建物や町の構造に不便を感じている。何とか自分一人で乗り越えようとがんばっている。しかし、乗り越えられない不便さに出くわしたら、だれかその場に居合わせた人の手を借りなければならない。介助してもらうためには、相手の体力や時間が必要になる。そして、手を貸してくれるかどうかは、相手の気持ち次第だ。人の好意にすがっているような、情けない気分になることもある。他人に迷惑をかけてはならない、という公衆道徳を、そのまま障害者にあてはめたら(障害者に手を貸すことを、迷惑だと感じているとすれば)、障害者は一歩も外へ出られない。迷惑をかけたくないという理由で、自分自身を家の中に閉じ込めている障害者も数多くいる。
自分が自分らしく生きていくことを優先させるか、周囲に気を使って遠慮しながら一生を終えるか。ぼくは十年悩んだ末に、前者を選んだ。自分自身のための選択だった。しかし、人に助けてもらうたびに、本当にこれでいいのかと心が重くなった。出口のない迷路のように、思いは同じところをぐるぐる回るだけだった。そんな憂鬱さを胸の中に抑え込んで、ぼくは、にこにこ笑っていろいろな店に顔を出し続け、常連に加えてもらった。
町内の公共設備ものぞいた。店から帰る道すがら、国道沿いの町役場と引田駅を外から眺める程度ではあったが。
町役場は、ずいぶん古い建物だった。新築されることが決まっているらしい。玄関前の階段を見ただけで、内部も車椅子では手も足も出ない造りになっているだろうと想像できた。役場に入る用事はすべて母に任せていた。ぼくには縁のない場所だな。新しくなったら、また見学に来よう。
引田駅では、まず改札口をのぞいてみた。やっぱり、狭い。電動車椅子では通れない。ホームをのぞくと、うまい具合に列車が止まっている。修学旅行以来、乗ったことがない。いつか、だれかに乗せてもらおう。それにしても、ホームと列車との間の、あの段差はひどい。車椅子どころか、歩いているお年寄りや幼児も、ちょっと危ないぞ。
高徳線は単線なので、駅で上りと下りがすれ違う。列車が左右に別れて去った後、向かい側のホームに、降りた乗客が残される。ここには陸橋がない。どうやって改札まで来るんだろう。じっと見ていると、駅員が、ホームの一部の鉄板を持ち上げた。その下から階段が現れ、乗客は、そこを下りて線路の上を渡り、こちらのホームに上がってきた。なるほど、あまり黒字の期待できないローカル線の知恵だな。しかし、これでは車椅子は渡れない。やっぱり、だれかに介助してもらおう。電動車椅子では重過ぎるから、残念だが、列車で出かけるとしたら、手押しだな。
役場と駅は、障害者には不便きわまりない施設だった。しかし、その時ぼくは「障害者が入れない場所」も世の中にはたくさんあるんだという程度の認識しか持っていなかった。
目的を持って外出するようになると、行き帰りに通る道にはあまり興味がなくなって、高速でとばすようになった。危険な場所には近づかなくなったので、事故も少なくなった。それでも時々、脱輪したり転落したりしていた。
路側帯から、三メートルもありそうな崖を転がり落ちたこともあった。幸い、下は田植えのあとの田んぼで、柔らかかったから、ぼくも車椅子も無事だった。
母の心配どおり、線路で立ち往生したこともある。お尻の下でゴトンと音がして、車椅子が突然動かなくなった。線路の上を通る衝撃で、バッテリーが落ちたのだ。これは大変なことになったと冷や汗をかいていたら、たまたま知人が通りかかって難を逃れた。
母は、ぼくが家に帰ると
「今日は、どこに行ってきたん」
と、必ずたずねた。しかし、それは詰問調ではなくなり、やがて、ぼくの失敗を、一緒になって笑うようになってきた。
新しい出会いを求めて、時間とバッテリーの許すぎりぎりの距離まで、車椅子を走らせる毎日が続いた。
三.出会い
ぼくは、字が書けない。幼い頃は、鉛筆を持たされて、蛇がのたうったような字を書いていた。しかし、タイプライターという便利な道具が出回ってからは、鉛筆を持つ練習よりも、タイプライターを操作する工夫に熱中した。
ごく初期のタイプライターは英文用で、おまけに電動じゃなくて、ぼくには遊び道具にもならなかった。ぼくがピアノの鍵盤を叩いても音が鳴らないのと同じで、タイプライターのキーも弾みをつけないと文字は打てなかったのだ。誰とでも会話できる気がして買ってもらったが、機械の都合に合わすような作業に嫌気がさし、すぐに投げ出してしまった。
初めて使った日本語用の電動タイプライターは、ひらがなのみの配列だった。その後、文字盤にぎっしりと活字を並べた、電動和文タイプライターが登場する。グリコ森永事件の犯人が、ぼくと同じ和文タイプを使ったらしい。それでも一応タイプライターを見て、警察官はすぐに帰って行ったから、容疑者にはならなかったが、妙に感慨深かった。同じタイプライターを前に置いて、人それぞれ、いろんな人生を生きているのだ。
自分の文章が書けるようになって、ぼくは、新聞やラジオに投書をし始めた。電動車椅子で出掛けたときに遭遇したエピソードを、はがきに打つようになった。新聞の片隅に自分の名前を見つけるのは、ちょっとした快感だ。ラジオから自分の名前が聞こえてくると、母を呼びつけて一緒に大騒ぎした。そのうちに、母のほうから
「今度はいつラジオに出るん?」
とたずねてくる始末だった。どうも、マスコミに名前を出したがる血筋らしい。
話がそれたが、そのタイプライターの講習会というのが、高松市で開かれたことがある。そこで、ボランティアの人たちと顔なじみになった。ボランティアという言葉自体、まだ新鮮な響きを持っていた頃だ。障害者に力を貸すことを自分の喜びとして、自分の選択で介助に参加する人たちの存在に、ぼくは嬉しい驚きを感じた。
「わたぼうしコンサート」という催しがあることを知ったのも、そのつてだ。ぼくは、電動タイプライターを使って文章や詩を書き散らしていることを知ったボランティアの一人が、わたぼうしコンサートに応募することを勧めてくれたのだ。
作った詩のほうは、なかなか採用されなかったけれど、わたぼうしコンサートには、毎年連れて行ってもらうようになった。これまで、両親の介助を頼りに生活していたぼくが、他人の力を借りて、遠方まで出かけるようになったのだ。
「人様にお世話になる」ことを、家族はとても気にする。どこへ連れて行ってもらっても、まわりに迷惑にならないように、いつもピリピリしている。行きたいところがあっても、まず家族から制限されてきた。けれど、ボランティアの若者たちは、全く平気だった。障害者が町に出るのは当たり前、障害者が困っていれば助けるのが当然という、実にわりきった考え方だった。
彼らは、わたぼうしコンサートだけでなく、いろんな場所へ、ぼくを連れ出した。だれかの車に乗せてくれることもあれば、手押しの車椅子にぼくを乗せて、ボランティアともども列車で移動することもあった。行先が遠くなると、当然長時間になる。自分で排泄できない障害者にとって、その処理が悩みの種だ。ボランティアたちは、それも平然とやってくれた。
ボランティアとの外出は、どんどん範囲を広げた。ジャズ喫茶、キャバレー、海水浴…ついには外泊もするようになった。医大生の下宿に転がり込んで、そのままずうずうしく何日もいすわったこともある。旅行にも行った。もちろん、まじめな集会に参加することもあった。
障害者団体の会合へも顔を出した。香川県内だけでも、障害者団体の数は五十近いということを、初めて知った。健常者ばかりのように見える社会の陰に、多くの障害者がひっそり暮らしているのだ。自分の身の上ばかり悲観するのは、視野が狭すぎた。
障害者という一言でくくられている人たちは、実は、さまざまな個性(障害の種類や程度)を持っている。日常のすべての場面に介助が必要な人もいれば、ほとんど介助なしで生活できる人もいる。何が困難でどんな助け(設備)が必要か、人によって全く違う。共通しているのは、自分の生きる意味を、必死で探し続けているということだ。
引田町には、早くから、「心身障害児者を守る親の会」という組織がある。なんのことはない、ぼくの母が発起人だ。ぼくを小学校に入れようと駆けずり回っていたとき、それを知った香川県肢体不自由児協会の人が、町内に組織を作ることを教えてくれたのだ。母は、障害児がいるらしいといううわさをたよりに(障害児は家の中にこもっているのが普通だったから)、町内の家庭を回り、会員を増やした。ある程度の人数が集まると、町に対して、扶養共済制度の補助や運営助成、障害児への援助金などを次々に要望し、勝ち取ってきた。この「親の会」は、今もちゃんと運営されている。
昭和五十七年から十年間、国際障害者年という全世界的な取り組みが行われていた。わが引田町でも、田舎だからといって知らぬ存ぜぬでは済まされなかったらしい。何か記念行事でも開こうということになり、町役場から「心身障害児者を守る親の会」へ、要望があったら提出するようにという旨の通知が届いた。親たちが集まって相談したが、これといって思い浮かばず、実際に町に出ている障害者であるぼくに、要望書作成の役目が回ってきた。
町が本当に障害者の声を聞こうとしてくれているのなら、チャンスかもしれない。車椅子を走らせながら感じてきた様々な「不便さ」が、ぼくの頭の中によみがえってきた。さっそく和文タイプライターに向かった。その場限りのイベントなんていらない。障害者と「ふれあう」場を、わざわざ設定してくれても、何の意味もない。ぼくたちは、町に出たい。一人の引田町民として、引田の社会に参加したい。そのために、町内の公共設備を使いやすくしてほしい。
具体的な要望事項として、車椅子でも安全に通行できるような道の整備と、新築される町役場の障害者用の設備をあげた。ぼくらが傍観者でなくなるために、まずこの町に必要なものだと考えた。しかし、どちらもかなりの予算が必要だ。実現する可能性は少ないかな、と思っていた。
島根県の三瓶(さんべ)という町で、中四国ボランティア研究集会が開かれたことがある。二泊三日の合宿だ。四人のボランティアといっしょに、ぼくも参加させてもらうことになった。
香川県の高松駅から島根県の大田駅まで、JRを利用した。公共の交通機関を利用すると、安くて早いけれども、どこもかしこも階段がある。当時はまだ瀬戸大橋が架かっていなかった。高松港から瀬戸内海を渡る連絡船に乗り、宇野駅、岡山駅、松江駅、と幾度も乗り換え、その度にボランティアたちは、ぼくの体と車椅子と荷物を、手分けしてかつぎあげ、階段を上がっては下りた。
ボランティア研究集会には、たくさんの若者が参加していた。ボランティアもいたし、障害者もいた。そこで話し合われたのは、障害者問題だけではなく、性差別や環境破壊など、いろんな分科会があった。集会の後の懇親会で、ぼくは彼らと二晩とも朝まで語り合った。
ここに集まった若者たちは、今までぼくの周りにいた人たちとは違っていた。障害の有無に関わらず、一人一人が、社会をよくしていくんだという強い信念を持っていた。障害者問題に関して言えば、障害者が社会で自由に生きていくことを、彼らは究極の目標としていた。障害があっても、社会の一員として当たり前に社会に参加し利用し自己実現を目指す。健常者なら疑いもしないごく普通の生き方を、障害者もごく普通に生きる。
語り合ううちに、今自分が電動車椅子で町内をうろついているのは、社会参加のほんの入り口でしかないと感じ始めた。ぼくの中でもやもやしていたものが、だんだんはっきりした形になってきた。彼らは、この社会が抱える様々な問題に、正面から取り組もうとしている。彼らの言葉は、行動を伴っている。ぼくはどうだ? 行動しているだろうか。声を上げて、社会に訴えているだろうか。本当に、社会の中で生きていきたいのなら、生きていける社会の実現のために、もっともっと、やるべきことがあるんではないか。嘆いてばかりではだめだ。世の中の人たちが、障害者に手を差し伸べるのを、じっと待っているだけではだめなんだ。
昭和五十八年二月、町役場が完成したことも、ぼくの追い風になった。新庁舎に関して以前出していた要望が、そのまま通っていたのだ。さっそく、一般公開の日に、電動車椅子で乗りつけた。段差なしの自動ドアを入り、車椅子からも手の届くボタンを押してエレベーターに乗り、障害者用トイレも見学して、ぼくは喜びの声を上げた。今、この設備を利用するのはぼくだけかもしれないが、きっといつか、だれかが恩恵を受けるはずだ。声に出せば、わかってくれる人がいる。やはり、黙って待っていてはいけない。
しかし、喜び勇んで帰る道で、ぼくは自分の大失敗に気づいた。今回要望した設備は、自分自身を基準にして考えている。だが、車椅子に乗っている人だけが障害者ではない。視覚障害者のための、点字表示や点字ブロックも必要だ。もっと、ほかの設備を必要とする人たちもいるかもしれない。声を上げるなら、もっと広い視野を持たなければ。喜びは恥ずかしさに変わり、ぼくは自分を戒めた。
四.挑戦
ぼくにできることは何か。右手がわずかに動く。この手で、電動タイプやワープロ、電動車椅子が操作できる。電動車椅子があれば、健常者が歩くのと同じくらいの移動ができる。遠距離なら、健常者がそうするように、ぼくたちも公共交通機関を利用できないだろうか。
実際に、これまで何度か列車に乗った。けれど、いつも介助者がついていた。介助者が手配できないと、ぼくは遠くへは出かけられない。乗り込むまでのいくつかの段差が越えられないのだ。たくさんの健常者を乗せて、列車が目の前に止まっていても。
ぼくが自由に交通機関を利用できないのは、自分の障害のせいだけではない。健常者を対象に設計されてきた交通機関そのものにも問題がある。
ぼくは、駅に向かった。付き添いをつけずに、一人で列車に乗れないものだろうか。引田駅から高松駅まで、乗り降りさえクリアできれば、あとは眠っていても列車が運んでくれる。健常者も障害者も関係なく。
まずは、駅員に声をかけてみよう。いきなり電動車椅子が現れたら、驚くかもしれない。引田駅始まって以来の事件だ。向かい側のホームに着く列車は、線路に下りて渡るという困難な作業が必要になるので、手前のホームに上り列車が着く時間をねらった。
駅員は、ぼくが列車に乗りたいと言うとは思わなかったらしい。最初は愛想よく、ぼくの言葉に耳を傾けてくれた。しかし、その内容が理解できてくると、にわかに表情が険しくなってきた。
「一人でですか」
「そりゃあ、無理じゃ」
「だれか、付き添いの人はおらんのですか」
「困ったなあ」
彼は、車椅子の人が一人で列車に乗ることはできないと、最初から決めてかかっていた。この障害者を列車に乗せて高松駅まで行かせるためにはどうすればよいか、などど、考えてみる気も起こらなかったようだ。やがて、車椅子のポケットに入っていた緊急連絡用の電話番号を見つけ、そこへ電話をかけ始めた。母の勤め先の番号だ。迎えにくるようにと言っている駅員の声が聞こえる。まるで子どものように扱われて、ぼくは落胆した。今日、すぐに列車に乗れるとは考えていなかったけれど、何か今後の手がかりになるような、相談なり話し合いなりができはしないかと考えていたのだ。全く受け付けてもらえないとは、情けない。
やがて、母がやって来て、駅員になにやら謝り始めた。謝るような、悪いことをしたわけではないのに。母が連絡したらしい近所の人が軽トラックで駆けつけて来て、ぼくは無理やり車に乗せられ、家に強制送還されてしまった。母も、ぼくも、最高に不機嫌だった。
今度ばかりは、母の言葉を黙って聞き流すわけにはいかなかった。ぼくがやろうとしていることを、じっと見ていてもらわなければならない。駅員や車掌、それに、もしかしたら列車の乗客など、たくさんの人たちの気持ちを動かして、高松駅の改札を抜ける事ができるかどうか。親としては、わが子が人様に迷惑をかけるのを見るのがつらいのだろうけれど、耐えてほしい。一人でできることは、一人でやりたい。それを阻むのが「物」ならば、その「物」を変える努力をするべきだ。変えるためには、行動を起こさなければ。健常者を巻き込んで、共に困難を経験してもらって、障害者を疎外してきた社会のあり方に、気づいてもらわなければ。
何度も母と話し合った。母は、もう反対しなかった。
「やれるだけやってみたら。ただし手伝いはせん。一人で行けよ」
と、静かな口調で言うだけだった。
親しいボランティアや、障害をもつ友人に相談してみた。いきなり駅へ乗り込んだぼくのやり方がまずかったということで、意見が一致した。最初だけは、高松駅で、だれかに待機してもらったほうがいいということにもなり、かつてボランティア研究集会に同行したTさんが、協力を申し出てくれた。
ぼくは手紙を書いた。その頃には、電動タイプからワープロに変わっていた。一人で高松駅まで行きたいということ、乗りたい列車、乗せてもらう方法、列車が着いた後のこと・・・。直接話し合うことが難しいので、伝えたい事はすべて書き記した。書き上げると、それを自分で駅に届けた。駅員は、ぼくの手紙を受け取って、何やら相談し始めた。祈るような気持ちで待つこと数分、やがて、
「わかりました」
という返事をもらうことができた。大きな前進だ。
決行の日、ぼくは一人で家を出た。車椅子のポケットには『高松駅まで行きます』などと書いたカードの束を入れて。何か突発的なことが起こった場合、このカードを使えば最も確実に対処できる。
引田駅では、荷物用の改札口を開けて待っていてくれた。切符も用意してくれている。お金はぼくの財布から出してもらった。改札口をぬけ、列車を待つ。高松駅までの時間を、そうやって過ごそうか。向こうでTさんに会えなかった場合はどうしよう。体を動かして対処することができないぶん、頭の中はフル回転している。「こんなことをやっていいのか」という思いも、ちらりと頭をかすめる。
列車が着いた。三人の駅員と列車の車掌の四人がかりで、重い電動車椅子ごとぼくを持ち上げ、ホームから列車の中へ移してくれた。ボックス席は狭いので、長椅子の前に、邪魔にならないように場所を決める。乗客は少ない。ぽつぽつと散らばって座っている人たちが、いっせいにぼくに視線を向ける。
車掌が持ち場に戻り、列車は動き出した。高松は終点の駅で、すべての線路が行き止まりになっている。降りるのに手間取っても、乗り過ごすことがないから安心だ。
「どこまで行きなさるん?」
と、柔らかな声をかけてくれた年配の女性には、用意してきたカードの一枚を見せた。
「気をつけてなあ」
という言葉は、砂に落ちた水のように、張りつめているぼくの心にしみわたった。
一時間三十分ほどかかって、列車は高松駅に着いた。引田駅からあらかじめ連絡が入っていたらしく、ぼくが乗っている車両が止まる場所に、すでに駅員が四人、待機してくれていた。ぼくをホームに下ろすと、その中の一人が改札まで案内してくれた。高松駅は、さすがに四国の玄関口といわれただけあって、たくさんの人が足早に行き交っている。その人ごみの中に、ぼくはTさんを見つけた。彼は、駅員に案内されているぼくを目で追っていたが、近づいては来なかった。最後まで手を出さないつもりらしい。
ぼくが通された改札口は、一般客とは別の場所で、車椅子でも楽に通れる広さだった。駅員は、その改札の鍵を開け、
「お気をつけて」
と、見送ってくれた。高徳線を利用した、おそらく初めての電動車椅子の障害者に、JRの職員はみな親切だった。一人でここまで来ることの、何と難しく、何とあっけなかったことか。駅前の花時計のかたわらに車椅子を止めて、ぼくは気が抜けたようにぼんやりしていた。
やがて、Tさんが駆けて来た。
「三谷さん、よく来たなあ!」
と叫ぶ彼の目が真っ赤だった。泣いているのか笑っているのかわからないような、ぐしゃぐしゃの顔だ。ぼくと並んで歩きながら、
「ほんまに、一人で、よく来たなあ」
と、何度も繰り返した。付き添いなしで列車に乗れたということに、ぼく自身よりも感激してくれていたのだ。
その日は、Tさんのアパートに泊めてもらった。部屋の壁には「わたぼうしコンサート」のポスターが飾られ、本棚には障害者やボランティア、レクリエーションの本が並んでいた。その中には「脳性マヒ」に関するものも多く含まれていた。
枕を並べて眠りについたが、夜中に何度も目覚めた。興奮していたし、隣でTさんが寝言を言うのも気になった。彼は、夢の中でも、つぶやいていたのだ。
「ほんまに、よく来たなあ、三谷さん」
と。
翌日、ぼくはTさんに見送られて高松駅の改札を通り、列車に乗って、無事に引田駅で下ろしてもらった。
それから後、同じような手順をふめば、列車に乗ることができるようになった。
時代は昭和から平成に移った。社会の中で、障害者に対する理解も、少しずつ深まってきた。障害者用の設備は、中央の都市から周辺の町へ向けて、次第に整えられ始めた。しかし、JRをはじめとする鉄道の設備はなかなか改善されない。列車に乗るたびに、駅員に重労働を強いることになってしまう。度重なると、気の毒になり、家族や介助を頼むこともあった。
平成三年秋、四国中の障害者団体がひとつになって、JR四国を相手に、設備の改善を求める交渉を始めた。まずは、JR四国の代表者に、ぼくたちと同じテーブルについてほしいと要求した。そして、本社のある高松駅四階の会議室で、話し合いの場が持たれることになった。ぼくも「香川車椅子旅行の会」を代表して、その席についた。
ぼくたちが要望として提出したのは、
・ 高架駅のエレベーター設置
・ 車椅子の昇降が難しい旧式車両の改善
・ 点字ブロックやスロープなど、障害者も安心して利用できるような設備を備える
などの内容だった。駅が使いやすい構造になれば、ぼくたちもありがたいし、職員も障害者の介助に力を使わなくてすむ。小さな子どもや妊婦、けがをしている人だって、安心だ。さらに、これからやってくる高齢化社会のことを考えても、階段だらけの駅は、変わらなければならないのだ。
ぼくたちの要望は、
「検討し、前向きに取り組みます」
という言葉で、JR四国の代表者に受け取られた。
その後、障害者団体とJRとの交渉は毎年続けられた。実際に鉄道の設備が改善されるのには、時間がかかったけれど、坂出駅にエレベーターがついたのを皮切りに、少しずつ、ぼくたちの要望は実現していった。
ぼくは、三十代も後半にさしかかっていた。普通なら、仕事も私事も充実して、働き盛りといわれる年代だ。しかし、ぼくの体は次第に動かなくなってきた。今までできていたことが、次第にできなくなり始めたのだ。不随意運動をなだめながら、なんとかこなしてきた食事や排泄、更衣、入浴などが、一人では困難な状況になってきた。手も足も、全く命令を受け付けない。二ヵ月ほどリハビリセンターに入院してみたが、機能は回復しなかった。
脳性マヒ自体は、進行しない。しかし、脳性マヒ特有の不随意運動が長い間に頚椎を圧迫し、神経を痛めつけ、その結果、マヒが進行してしまう。幼い頃から、身の回りのことは自分でやろうと、時間をかけて不随意運動とたたかってきた。電動車椅子を操作したり、初対面の人と話をしたり、ワープロを打ったりするたびに、ぼくの体は緊張して不自然に動き続けてきた。さらに、新しく買い込んだパソコンに夢中になって、プログラムを作ったり、パソコン通信にのめりこんだりした。ぼく自身が自分らしく生きるために続けてきた努力が、二次障害の原因を作ってしまったのだ。そして、それは、ぼくだけに起こったことではなく、同じような脳性マヒの友人の体に共通して起こっていた。
自分でできることが少なくなると、毎日介助してくれる両親の負担が増える。一日何度もぼくの体を抱え上げるのは、重労働だ。六十才になろうとしている父と母に、この先いつまで世話になれるか。将来に対する不安はずっと持っていたが、自分の体が動かなくなってきたことで、その不安が突然現実のものになってきた。いつまでも、このままこの家で過ごすことはできない。
ぼくは、施設に入る決心をした。あちこちから書類を取り寄せ、人にたずねて、納得のできそうな施設を探した。
「まだ、お前の介助くらいできる。もう少し先でいいのに」
と、母は言ったが、ずるずる先に延ばすより、お互いが少しでも元気なうちのほうがいいような気がした。
平成六年の春、二十キロほど離れた町に、療護施設「真清水荘」ができた。家族と見学に行き、ここならと納得して、ぼくはパソコンを連れて入所した。
今、岡山市にある国立病院の整形外科病棟の一室で、妹にこの原稿を口述筆記してもらっている。体のマヒは、施設に入ってさらに進んだ。ぼくの生活の全てと言ってもいいパソコンの操作も、電動車椅子の操作も、なにもかもが困難になってしまった。マヒの進行をわずかでも食い止めるために、頚椎を開く手術をこの病院で受けて、現在入院中の身だ。窓から、新幹線が見える。岡山駅にはエレベーターがあって、車椅子の人が申し出れば利用させてもらえると聞いた。島根へ行く途中、恨めしい思いで高架を見上げたのが懐かしい。
引田駅に、車椅子でも線路を渡れるスロープができたのは、施設に入って二年後だった。向かい側のホームに渡るそのスロープを、友人の車に乗せてもらってこの目で見たのは、さらにその一年後だ。ぼく自身が利用することは、もうないだろうけれど、感慨はひとしおだった。障害者も社会の一員だという思いが、形になってそこに道を作っているようだった。
外に出ようと思い立ってからおよそ二十年。平坦な道ではなかった。生きる目的を探して、もがき続けた日々だった。四十才を越えた今でも、やっぱり答えが見つからず、じたばたしている。まだまだやりたいことが山積みだ。ただ、以前に増して動かなくなったこの体では、思い通りにはいくまい。しかし、声を出すことができる限り、自分の思いを訴えていこうと思う。社会に向かって声を上げれば、きっとわかってくれる人たちがいる。


