僕とパソコンのアブない関係

僕とパソコンのアブナい関係

(その一)
 上のタイトルを見て、僕をご存じの方は「とうとうパソコンにまでちょっかいを出すようになったか」と、ため息をもらすに違いない。しかし、それは早合点というもの。いくら僕が好きものでも、石のかたまりを誘惑するほど物好きではない。それでは何がアブナいのか?をこれから書いていくことにしよう。
 今でこそこうして好きかってなことを書いているが、これまで生きてきた三十四年の人生のなかで、およそ三分の二までの期間は、未知の人に自分の意志を伝える手段を持たなかった。アテトーゼ型の脳性マヒは、体の運動機能が損なわれた上に、自分がこうしようと思うと、全身に力が入ってニッチもサッチも動かなくなる。この症状がアテトーゼだ。

 僕の場合、とくに喋るときにこのアテトーゼが顕著で、見ず知らずの人の前ともなると、普段でさえ発声しにくいのが、一言の言葉も出せなくなってしまう。おまけに手足は変な方向に曲がってしまうし、顔の筋肉がこわばって涎は垂れるしで、見知らぬ人に白痴扱いされても、自分のこの状態を考えればしょうがないなと思ってしまう。相手が諦めて去って行ったあとに残るのは、極度の疲労感と言いしれぬ孤独感だ。そんな僕が電動かなタイプライターに出会ったのは、十九歳のときだった。
 JIS配列のキーボードの上には、プロテクターと呼ばれる、各キーの真上だけ穴をあけた板をセットしてある。この穴に鉛筆みたいな棒を差し込んで、目的のキーを打つのだ。この方法だと、手が震えてもミスタイプをかなり防げるのである。相変わらずアテトーゼはあるが、喋ることに比べればどれほど楽かしれない。かな文字だけとはいえ、自分の思いどおりのことを表現できる喜びは、疲労を相殺して余りあるほどだった。

 とくに小気味よかったのは、僕の書いてゆく文章を読んでいるうちに、相手の表情が変わり、僕に対する言葉遣いまで改まったものになることだった。その数年後には和文タイプが重度身障者の日常生活用具として支給されるようになり、より実用的な文書が打てるようになった。この機械は、両手を使わなければ操作できない構造だったが、リモコンスイッチを取り付けることにより、どうにか解決できた。しかし、新たに別の問題が生じた。漢字だ。かなタイプだと書きたいことをそのまま打っていきさえすればよかったが、和文タイプではそう簡単にいかない。
 そのころは当用漢字と呼ばれていた千を越す文字の中から、正確に活字を拾わなければならない訳で、辞書を引いている時間の方がタイプしている時間より長かったりしたのである。本は何とかめくれたが、辞書の薄い紙は難儀だった。それになにより、推敲しようと思ったら最初からまた打ち直さねばならない。その労力を惜しんで、打つ前に文章を組み立てようとするから、余計に時間がかかってしまう。タイプライターという機械は、手書きの原稿を清書するための道具で、鉛筆代わりには到底ならないということを知った。

 同じ機種だとのことで数年前刑事が活字を調べに来たが、グリコ森永事件の犯人も脅迫状をタイプする前には綿密に下書きしたに違いない。(もし僕の犯行がバレていたら、刑務所も困っただろうに。時効も近い。ウッシッシ)そんな不満を抱きつつも償却期間は使いきり2台目の支給まで受けたのだから、書くことへの執着はかなり強かったのだろう。「日本語ワードプロセッサ」という機械が開発されたのを知ったのはこのころだ。
 かなを漢字に変換してくれることもさることながら、一度書いた文書をあとからいくらでも加工できるということが、僕にはなによりの魅力だった。しかし、ワープロは当時まだ何十万もした。それでも、欲しい物は手に入れないと気がすまない僕である。ひつこく迫った結果、資金は障害年金をカタにして、マミーローンから借りられることになった。そこで、どうせ大金をつぎ込むなら、ワープロ以外の用途にも使えるパソコンにしようというセコい考えが、泥沼に足をつっこむきっかけだった。

 机の上を大小さまざまな機械が占領し、その裏はケーブルの洪水、本棚では分厚いマニュアルが幅をきかせ、僕の頭の中もパンク寸前になっている。それもこれも、分不相応とでも言えそうな十六ビットパソコンを買い、投資した金額以上に働かせようとしていることがそもそもの原因なのである。
 パソコンをどんな風にこき使っているか、いよいよ本題にはいる訳だが、前置きが長くなって、またまた原稿の提出日を過ぎてしまった。続きは次号に書こうと思う。なお、なるべく平易に書いているつもりだが、内容が内容だけに意味の分からない言葉が出てくるかもしれない。そんなときはあまり深く考え込まず、読みとばしてほしい。
=つづく=

(その2)
 「彼に抱かれたの。」と、彼女は言った。彼女に彼を紹介したのは他ならぬ僕だから当然の成りゆきと言えばそうなのだけれど、やはりショックだった。布団に入ったら、その有り様が脳裏をよぎってとても眠れやしない。何も考えられず、パソコンに没頭することで忘れようとした。
 重度障害者とはいえ、その頃はまだ寝返りで家の中を動き回り、便所さえ一人で行っていた僕である。夜中に起き出して、小机の上のパソコンに向かうことも訳はなかった。毎日のように徹夜して、BASICのプログラムと格闘した。プログラムの内容は、「漢字住所録」パソコンを買って初めてBASICに挑戦しようとする人なら誰もがやってみようと思う定番ものだ。
 お誂え向きにPCマガジンという雑誌の85年12月号に、「名刺管理」というものがショート・ショート・プログラムとして掲載された。その300行ぐらいのものを、住所録と呼べるように改造しようと思った。まだBASICの命令語の意味も掴めていなかったので、とりあえず手本の通りプログラムを打ち込む必要があった。

 問題はキーボード。ここでも障害者が使うことなどまったく考えていない設計思想が立ちはだかっている。ひしめき合っているおよそ百個のキーの中から、目的の一つのキーを押すことだけでもたいへんなのに、やれやれ打てたと安心してちょっとでも指をそのままにしておけば、同じ文字がずらりと並んでディスプレーを飾る。
 これを消そうと[BS]キーを押したら押したで、今度はそれ以前に打った正しい文字まで消してしまう。またキーボードは、百個のキーでも足りないので、3個ほど特殊なキーを設けて、その特殊なキーと他のキーを同時に押せば、単独で押したときとは別の文字が出てくるようになっている。

 例えば、「つ」というキーは「SHIFT」と呼ばれるキーと一緒に押せば、拗音の「っ」になるといった具合だ。この、二つ以上のキーを同時に押す操作が、重度障害者にとっては非常に困難なのだ。以前に書いた電動かなタイプの場合は、「SHIFT」を1回押すと機械的にその状態が保持されるようになっていたため、障害者でも使えたのである。やはり外国製品は、その辺の配慮が行き届いている。
 僕の体はややこしい。左手の指先は音楽のリズムを刻めるほどよく動くが、その根元の腕がまったく上がらない。いっぽう右手の方はというと、腕は少し上がるが手首から先の動きが鈍い。この訳の分からぬ両手を使ってキーボードを打とうとすれば、体を改造できない以上、キーボードの方に譲歩願わねばならない。

 わざわざ高松の専門店でパソコンを買ったのも、片手で打てるようにキーボードを改造してもらうためだ。こんなこと、田舎の電器店ではとても任せられない。キーボードからリード線を引っ張り出してスイッチを取り付け、「CTRL」キーと「SHIFT」キーをそのスイッチでも代用できるようにしたのである。ただしそのスイッチは、押したままの状態を保持してはくれなかった。手を離せば元に戻るということは、二つのキーを同時に押そうと思えば、両方の手がどっちも機嫌の良いタイミングを見計らって押さねばならない。
 まるで他人のもののようだが、自分の身体の一部でありながら、意識で制御できないというのは、悪魔が宿っていると思うしかない。キーボードに取り付けたスイッチは、それでも何にもないよりは確かに楽だった。BASICのプログラムには 「”」「$」「(」「)」 といった「SHIFT」キーを押さなければ打てない記号がやたらに出てくる。そこでプログラミングのときは、重りを載せてスイッチを押したままにしていた。

 話をプログラムに戻そう。雑誌の丸写しは、3日かかった。その次は何人分かのデータを入れて、プログラムの使い方を調べる。簡単な解説記事はあったが、使い方はプログラムを読めば解るといった不親切さである。そのために入力した最初のデータが、かのフラレた彼女の名前だった。「これは試験的に入れてみるだけだ」と、自分に言い訳をしながら、暗記してある住所、電話番号、会社名と入れてゆき、最後の項目「間柄」には“友達”とインプットした。
 そんなふうに10人分ぐらいのデータを入れてみて、いろいろいじくっているうちに使い方がだんだん分かってきた。検索とかソートといった、この種のプログラムにはなくてはならない機能もちゃんと備えられていることも分かった。ただ、「名刺管理」と銘打っているだけに、1件のデータの中に登録できる項目は「名前」「フリガナ」「住所」「電話番号」「所属」「メモ」「間柄」の7項目だけだった。

 僕の友人は学生が多いので、下宿と実家の二つの住所と電話番号を記録しておきたい。しかもその二つを簡単に切り換えられるようにしておいて、年賀状や暑中見舞いの宛名書きを一気にやらせるのだ。目標が決まったところで、プログラムの改造に取り掛かった。まず、同じことをさせている部分を探して、ひとつの部品のようにしてしまうことから始めた。そうすれば、改造するときにもそこだけ変えればいいわけだから、最小限の作業ですむに違いない。
 同じ目的で、「名前」「フリガナ」「住所」といった全ての項目を、配列変数というものに置き換えた。とはいうものの、まだ意味の分からない命令語がたくさんあったので、BASICの分厚いマニュアルが手放せない作業だった。そして、命令語のはたらきをまとめた小さな早見表、それに元のプログラムの載ったPCマガジン誌を周りに並べ、夢中でキーを打ってゆく。

 正座に似た座り方だが、両足の間に尻を落とす座り方を「鳶座り」というのだそうだ。場末の娼婦がキセルをくわえてこの座り方をしている場面を、時代劇などでよく見かける。寝転がった姿勢からでも、この鳶座りなら一人で座ることが出来たし、長時間倒れることもなかった。車椅子に乗っているのが一番楽には違いないが、乗り降りが大変で取りたい物があってもなかなか取れない。
 そんなわけでキーボードに向かうときは、いつも鳶座りのスタイルだった。3年に1度ぐらい出席する、CP者のための療育相談では「X脚になるから、鳶座りはよくない」と言われていた。にもかかわらず、それを続けた。自分の体がどうなろうとどうでもよかった。同時にプログラミングの面白さが分かりかけて、失恋の痛手もパソコンに向かっているときだけは感じずにすんだ。

 プログラミングは、模型を組み立てるようなものだ。単純な働きしかしない命令語を幾つも組み合わせて、自分の思い通りの働きをするマシンに変えてゆく。自分自身の肉体でさえいうことをきかない僕にとって、これは没入せずにはいられない魅力だった。プラモデルを組み立てる楽しみを、30歳近くになってようやく味わっていたのだ。
 しかしプラモデルと決定的に異なるのは、いくら複雑なプログラムを組んでもパソコンの形状が変わる訳でもなく、まして部屋の掃除をしてくれる機械に変身したりはしない点だ(目や手足の働きをする機械を取り付ければ可能だが)。誰にでも分かるようにするには、目に見える形にして画面に出させるか印刷するしかない。たとえそれをひとに見せたとしても表示が地味だったりした日には、期待していたような言葉は返ってこない。

 このことから言えるのは、プログラムはつまり論理ひいては意志といった、目に見えないものを集約したものだということだ。全く興味のない人がみれば、英語みたいな変な単語をせっせと打ち込んで、いったい全体何が面白いんだということになる。その頃僕の知り合いの中に、パソコンに興味のある者はいなかった。だから分からないところが出てきても、自分で解決するしかテはない。
 そのことが逆にプログラミングに熱中させる原因の一つになったのかもしれない。誰の教えも乞わず、ここまで出来るようになったんだぞと威張れるではないか。実際プログラミングは、これまでの教科にない全く新しい学問だったので、独学にはうってつけだった。数学の二次方程式が解けなくても、英単語の活用を知らなくても、プログラムは組めるのだ。

 こうして命令語の意味も一つ一つ覚えてゆき、どんなときにどの命令を使えばいいのかも大体分かるようになってきて、ますます面白さが増幅していった。それとともにプログラムも複雑になり、命令語を記述した行の数も増えていた。
 この段階までくると、自分で定義したサブルーチン(ひとまとまりの命令を部品化したもの)やフラグ(プログラムの進行状況を知るために置く変数)の流れが、頭の中でいつもプログラムをたどっているようになる。ふと目覚めてそういうことを考えているうちにバグ(プログラムの誤り)に気づき、急いで蛍光灯の長い紐を引っ張って起き出したこともしばしばあった。
=つづく=

(その3)
 そうやって寝る時間も惜しんでキーボードに向かう日々が、3ヶ月は続いた。もうとっくに年は明け、その年の年賀状には間に合わなかった。しかし、【住所録】のプログラムはどうにか完成した。全く白紙の状態から作った印刷のルーチンも、僕の意図したとおりに動いていた。
 ただ、一つどうしても分からなかったのは、プログラムが不意に途中で1分ほど止まる現象が起きることだった。プログラムを起動してしばらく使っていると、現在の時刻を表示している数字が変わらなくなってしまう。その間にキーを押しても、プログラムが再開するまでは反応しないのである。

 プログラムの初歩的ミスでは、こういう症状になることはまず考えられない。それで、サブルーチンからサブルーチンを呼ぶネスティングが深すぎるのではないかとか、プログラムの行が多すぎるのではないかとか考えて、何度か構成を変えてみもしたが、すべて徒労に終わった。
 大体、ある特定の場面でそうなるのなら、対処のしようもあろうが、まったく気紛れに、まるでパソコンが考え込んでいるかのようなその症状には、手の施しようがなかった。しかし、その症状にさえ目をつぶれば、住所録としての機能はまずまず充分と言えた。現に今でもそのまま使っている。その症状も残ったままだ。原因は後に判明するのであるが、いまさらその600行にも膨れあがったプログラムを直す根性がない。

 それはともかく、プログラミングに夢中になって失恋の痛手を忘れられたかというと、答えはノーである。何気ない瞬間に、空しさが満ち潮のようにこみ上げ、生きる意欲を削ぎ落とす。自分の気持ちを伝えていれば、少なくともあんなことを聞かずにすんだのではないか。いやいや、やはり健常者にとって僕のような重い障害のある者は、異性としてすら意識してもらえないのだ。
 だからこそ、あんなことを打ち明けたのだろう。たとえ告白していたとしても、似たり寄ったりの結末を迎えていたに違いない。やはり障害者はどうあがいても健常者とはりあうことなどできないのか。しかも、彼女には好きな男性がいた。告白など出来ようはずがないではないか。

 僕は常々、障害者と全く関わったことのない女性と、つき合ってみたいと思っていた。特に高松では、ボランティアをしてくれている人の多くは、大抵職場や学校で障害者と何等かの接触があるか、それなりの知識を持っている人ではなかろうか。そういう人は優しいしよく気がつくしで、自分が障害者だということを意識しないですむように扱ってくれる。
 大変ありがたいことであるが、若い僕には、それが障害者の世界を狭くしているように思えてならなかった。全く別の世界のひととつき合えば、些細なことで傷つけ合う可能性もある反面、お互いに発見が多い分、吸収し合えるものも多いはずだ。それに、本当に人間的魅力があれば、どんな障害があってもつき合ってもらえるはずだと思っていた。若さゆえの奢りであろうか。

 そんなことを考えていた僕の前に、普通のOLを現われさせたのは、神の粋な計らいだったのかもしれない。しかも出会ったのがクリスマスパーティーの日とくれば、これはもう神がかりだ。ボランティア協会に若い女性の新顔がお目見えしたというので、僕を介助してくれていた保育専門学校の女の子が、僕の乗った車椅子を勝手に彼女の前に押して行った。
 僕が女性に、特に美人に目がないのは有名で、会員の間では僕はビョーキということになっていた。彼女は、TVタレントの渡部めぐみに似ていた。中堅クラスの建設会社の高松支店で事務を取っているという。彼女は市の広報でこの日のことを知り、ごく軽い気持ちでこの福祉会館を訪ねたそうだ。こういう出会いがあるから、人の集まる場所には行かなければならないと、そのときは思った。結局この日は、僕が彼女を独占してしまった。

 彼女は顔に似合わずボーイッシュな性格で、初対面の割りに結構気さくに話をすることができた。もちろん住所と電話番号を聞き出すのを忘れはしない。しかしこのころは、まだ羞恥心が残っていたので、やたらに会ったばかりの女性の家に電話をかけるようなはしたない真似はしていなかった。だから、この日限りの出会いに終わっても不思議はなかったのである。
 「本当のクリスマスの日には、私の好きな歌をダビングして送るから聴いてネ。」の言葉どおり、数日後10本のカセットテープが届いた。本格的なつき会いが始まったのは、それからだ。文通を重ねるうち、電話でも話すようになった。分かりにくい僕の言葉も、不思議なほど彼女は理解した。
 また車に乗る彼女は、ボランティア協会の行事や何かで僕が高松に出掛けて行く度に出向いてくれたし、40㎞の道のりを僕の家に足を運んでくれたことも一度や二度でない。いま思い出すと、彼女がしてくれたことや、一緒に行った場所での様々な場面が、楽しかったその頃のまま心に残っていることが分かる。

 彼女は、悩んでいた。最愛の男性から、自分はふさわしくないという理由で身を引き、好きでもない男の求婚を受けようとしていた。そんなことを打ち明ける彼女に、僕はただ聞いてあげるしかなかった。「三谷さんの笑顔を見てると元気が出るんだ。」などと言われたら、僕に何が言えただろう。

 彼女の心境を僕なりに解釈して、詩を書いたことがある。正確に言えば、曲を付けることを前提にした「詞」だ。
「雨をだまして」
窓辺に膝を抱えて
行き交う車みてるの
雨だわ とても寒いわ
あなたは何をしてるの

昨日ね あるひとに
プロポーズされたのよ

上手に雨をだまして
涙のあとを消したい

あなたがくれたカセット
なぜだか音がふるえてる 鏡の中にいるのは
短い髪のおんなよ
電話のベルが鳴ってる
これから彼とデートなの

昨日ね そのひとに
プロポーズされたのよ

おしゃべり雨をだまして
あしたに虹を架けるわ

あなたがくれたレコード
ラックの奥にしまい込む 雨だわ とても寒いわ
あなたは何をしてるの

昨日ね あるひとに
プロポーズされたのよ

今から逢いに行き
プロポーズお受けする

 デイブ・グルーシンの曲に言葉をはめ込んで作ったこの詩は、これまで僕が作っていた詩とは異なり、その中に自分を全く登場させていない。そのことが逆に、僕の決意みたいなものを物語っている。ともあれ、この詩は彼女を喜ばすことが出来た。さらに、ある雑誌の小さなコンテストに選ばれたことで、その喜びも増した。彼女は、この詩で自分にふんぎりをつけようとし、僕は僕で、それが彼女にしてあげられる精一杯のことだと、自己満足しようとしていた。
 そしてこの詩は、障害者の詩に曲を付けて歌う「わたぼうしコンサート」に出品することにした。そのオーディションや合宿の日も彼女は来てくれたし、コンサートの当日も無論やって来た。僕と彼女はいい間柄を保てていた。少なくとも僕はそう思っていた。このまま終わっていたら、パソコンに狂うこともなかったのだ。

 コンサートが無事終わって数日たったある日、彼女は電話でこんなことを言った。「『わたコン』の実行委員長してた人って、カッコええ人ね。今度紹介してよ。」やはり、社会経験のとぼしい僕では、相談相手としてもの足りないのかと思い、その銀行員のYなら何かいいアドバイスをしてあげられるかとも思って、彼女の望みをかなえた。Yに自慢したかったことも確かである。しかし、これは大きな誤算だった。これで、やっと前号の冒頭部分の説明が終わった。話が前後したのは、書くか書かないかで悩んだ末の結果だと承知してほしい。

 そのことを聞かされたのは、彼女にYを紹介してから1ヶ月ぐらいしてからだった。ためらいがちに言った彼女の言葉に、僕はどう返事していいか分からず、笑いながら「よかった?」などとバカな言葉を吐いて、彼女にたしなめられた。それで、どうにもたまらなくなって、「好きやったのに・・・」と、やっとのことで声を絞り出した。しばらく黙ったままの彼女。泣きながら、「ごめんね。」を繰り返す彼女。僕も嗚咽が止まらなかった。
 最後まで「いい人」を貫けない、中途半端な自分が情けなかった。これだから、いつまで経っても「女友達」しか出来ないのだろう。彼女は、僕の作った詩のとおりに、同じ会社の男と婚約をした。婚約をしてからも僕の家を何度か訪ねてくれた。そして、僕に新婚旅行の行き先を相談したりもした。何かを諦めたということで、二人は共通点を見出せたのかもしれない。僕の【住所録】プログラムが完成した頃、彼女は結婚した。と同時に、同じ姿勢を取りつづけていた僕の体は、とうとう限界に達したのだった。
=つづく=

(その4)
前号までのあらすじ:
 脳性マヒで、未知の人に自分の意志を伝える手段がなかった僕は、和文タイプに代わる道具としてパソコンを買った。当初はワープロとして使うつもりだったが、失恋したのをきっかけにプログラミングの泥沼にはまり込んで、ついには体を壊してしまう。体の緊張が激しくなって、自分でトイレに行けなくなり、「鳶座り」さえ出来なくなった僕を、母親は彼女Hが結婚して意気消沈したからだと思ったらしい。
 口にするのも情けなかったので、僕はあえて説明もしなかった。しかし、僕の世話が大変になったという実害を被ったのは両親の方なので、両親はHに怨みを抱いていたようだ。僕の方は、このまま体がどんどん悪くなって死んでしまえばいいと内心思っていた。それに、彼女に非があるとすれば、素直になんでも打ち明けすぎたということだけで、どう考えてもHを憎む気にはならなかった。それだけに、その矛先は自分の障害に向き、絶望感がますます深まってゆくのだった。

 【住所録】プログラムが完成し、もう忘れさせてくれるものもなくなって、今度は音楽に救いを求めようとした。特にビル・エバンスの弾く「マイ・フーリッシュ・ハート」。この曲を聴きながら、寂しさに圧しつぶされる快感は何とも言えず、感極まって涙が溢れるほど僕を酔わせた。
 実は彼女を抱いたYもジャズファンで、なかでもエバンスが好きだと言っていた。だからこんなCDをかけるのは、かさぶたをむしり取り、傷口をえぐるようなものだが、抑制の効いた包容力のあるピアノの音色は、そんな引っ掛かりを忘れさせるほど暖かくやさしかったのだ。

 しかし、いつまでもそんなふうに悲嘆にくれていてもラチはあかない。アテトーゼはいっそう強くなって、背骨・手足・首・顔に電流が走るような痛みまで出るようになった。死ぬことはさして怖くはなかったが、その痛みにはどうにも耐えられず、とうとう入院することにした。入院するのは、以前は身体障害児の施設だったものを成人でも入れるよう^に改築された、真新しい建物のリハビリ・センターだ。
 その昔、身辺自立が出来ない僕の入所を拒み、それで仕方なく地元の小学校に通うことになったという、僕にとって因縁深いところだ。あれから四半世紀も経って、施設の名称も変わったので、職員の意識も進歩したのでは?との期待は見事に裏切られた。医師は入院を勧めるのだが、婦長はあからさまに困惑の表情をとった。全面介助となると、看護婦の仕事が大幅に増えるというのである。

 しかし、40㎞も離れた実家から親が世話をしに来られるはずがない。世話をする側の言い分も解るが、本当に困っている僕ら重度障害者を切り捨てて、何が「身体障害者総合リハビリテーション・センター」なのか。婦長の態度に腹を立てながら、僕の胸には逆に闘志が湧いてきた。こういう場面で変に元気が出るのは、母親譲りのひねくれた性格だからだろう。
 その昔、この施設への入所を断られ、地元の小学校に入学を申し込んだがそれも断られたにも拘らず、母は僕をその小学校に6年間付き添って通いとおした。その負けん気たるや、我が母ながらシャッポを脱ぐ。入院してから分かったのだが、そこは看護婦の組合の力が非常に強く、婦長は組合からの突き上げを恐れていたのだ。しかし、親身になって世話をしてくれたのは、皮肉にもその組合活動に熱心な看護婦だったりする。

 その病院には、ケースワーカーがいた。ケースワーカーと言っても我が国ではまだなじみが薄いが、患者と、医師・看護婦・訓練士らとの橋渡しをし、どういう治療を施すかを彼らと考え、退院後のケアまでしていく病院には不可欠な職業だ。そのケースワーカーの女性が僕を知っていて、僕の入院を強力に応援してくれた。彼女が僕を知ったのもまた「わたぼうしコンサート」で、これもまた因縁なのかもしれない。
 彼女と相談した結果、看護婦の忙しい時間にボランティアを雇うことで、婦長に僕の入院を許可させた。ボランティアは無償奉仕だと一般には思われているが、そんな考え方がボランティア人口の増加の妨げになっているのではなかろうか。無償ならまだマシで、多くの場合持ち出しになる。これでは、長続きするはずがない。せめてその時間に要した費用の一部でも支払わなければ、ボランティアを受ける側も気が引けて頼むに頼めない。

 幸いなことに、「わたコン」に出ていたお蔭もあって、ボランティアを頼める友人はたくさん集まった。無論、Yには声を掛けなかったし、結婚したHは夫の転勤で高知の中村市に移ってしまっていた。そして入院する前に、未練たらたら書き並べた手紙を送ったからか、それきり音信が跡絶えてしまっていた。彼女とはもう終わりだと感じていた。それはともかく、不安はあるもののどこかに希望を抱いた入院生活が始まった。
 親元を離れるのは、小学3年生の時、徳島市の大神子病院というところに半年間入院して以来のことだ。これも婦長の指示で、母が3日付き添っていた。大変なのはそれからだった。衣服の着脱から、洗顔、食事、用足しと、全て誰かの手を借りなければならない。
 しかもその多くが、朝の看護婦が忙しい時間に集中する。ボランティアを頼んである人達も、この時間には来てくれない。そうなってくると、時間はかかっても、どんなに体力を消耗しても、少しでも自分でやるしかない。人がしてくれれば5分で済むことを、その何倍もの時間を掛けて汗みずくになってする。

 僕は家に居る頃から、こんなことに強く抵抗してきた。なぜなら、それらは努力で解決する問題ではないと思っていたからだ。しかし、ここではそうも言っていられない。規則を守ることしか頭にない看護婦に、そんな議論を吹っ掛けても無駄だ。だいいち看護婦たちは、我々患者と話をしようともしないし、そんな時間を持とうともしなかったのだ。
 自分では何も出来ないから、表面上はニコニコして看護婦の機嫌を取っていたが、心の中では彼女達の何人かを軽蔑していた。彼女達が規則にしがみつくのは、取りも直さず自分達の判断力の無さを露呈しているようなものだ。そんなことを考えながらも、彼女達に礼を言っている自分を嘲笑していた。しかしその笑顔の効果は着実にあらわれ、次第に僕は看護婦のみならず、成人病棟の患者に気に入られるようになった。

 ひととおりの朝の支度がすむと、深夜勤から日勤の看護婦への「申し送り」の儀式だ。朝が忙しい原因の一つは、この儀式までにすべてを終わらせなければならないためでもある。30分は続くこの儀式の間じゅう、患者は放ったらかしにされ、看護婦詰所への入室も禁じられるのだから、何のための申し送りか分からない。ことによると、我々の悪口を言い合っているのではないかと言う患者さえいた。
 その間の僕の処遇はと言うと、深夜勤の看護婦の思いやりの度合によって、二通りに分れる。ひとつは、電動車イスのまま自由時間を楽しみなさいと言うもので、こんな看護婦の当番が待ち遠しい。もうひとつは、ベッドに逆戻りして、顎にベルトをかけ、頭部の牽引を始めるというものだ。僕の入院の主たる目的がこの牽引だから、しょうがないと言われればそれまでなのだけれど、朝飯を食ってすぐ寝かされては、腹ごなれも悪いというものだ。

 この牽引自体は痛くもかゆくもないのだが、そのあいだ天井を見ているしかない。退屈もいいところだ。それで、CDプレイヤーに密閉型のヘッドホンを差し込んで、好きなジャズを大音量で聴いたりしていた。普通それが1時間ぐらい続くが、時には看護婦に忘れられてもっと長引くこともあった。
 この牽引がすむと、今度は別棟に行ってリハビリを受けることになる。リハビリには理学療法(PT:基本的動作能力の回復を図るため、運動、電気刺激、温熱などによるリハビリ)と作業療法(OT:日常生活に必要な能力の回復を図るため、手芸、工作などによるリハビリ)とがあって、僕の場合PTは週5日、OTは週2日受けるように指示されていた。

 しかもPTは、午前と午後の1日2回受けることもあった。訓練はかなりハードであったが、患者達の憩いの場でもあった。トゲトゲしい看護婦の態度から逃れて、みんなホッとするのだ。訓練士の先生も患者に気さくに話し掛け、彼らのやる気を引き出すのに苦心していた。
 僕は僕で、その中の美人の先生に会うのを楽しみにしていた。きょうはその人が訓練してくれるかなと、期待しながら順番を待つのであった。何しろ、訓練だと公然と手を握ったり、女の人の体を身近に感じることが出来る。30歳を過ぎても、まだそういう経験に乏しい僕であった。

 そんなある日、いつものように病室で首を吊られて(牽引することをこう呼ぶ)うとうとしていると、なんと中村にいるはずの彼女の顔が目の前にあるではないか。夢の続きを見ているような不確かな意識を、急速に現実へと引き戻したのは、彼女が着ていたワンピースのマリンブルーの鮮やかさだった。
 「目が覚めた?」
 「びっくりした。高松に帰ってたの?」
 「うん、私だけね。」
 「旦那と別れたん?」
 「そんなこと出来んわよ。ホームシックにかかったって言うて、帰らせてもろたん。」
彼女が首を振ると、ワンピースの胸の辺りで艶やかな髪が揺れた。
 「また、髪のばしたんやな。」
 「うん。シャンプーは面倒やけど・・・」
腰掛けを兼ねた衣装ケースに座ったHが、細く長い指でその髪を梳くと、僕のベッドの周りにほのかな甘い香りが漂った。
 「ええ匂い。その長い髪が好きやった。」
 「髪だけ?」
悪戯っぽい言い方だったが、心なしか寂しげな微笑みをうかべた彼女は、僕の手にその髪をそっと触れさせてくる。
 「分かっとるくせに・・・」
と僕が言ったきり、目と目を見つめ合ったまま、無言の会話をしていた。
 「お隣さんはいないの?」
 「ここしばらくは一人や。」
ちょうどこの頃は、この部屋の入院患者は僕だけだったのである。
 「心細いでしょうね。」
 「いやー、慣れとるけん。」
 「三谷さんは強いもんね。」
意外にもろいことは、彼女も知っているはずだ。
 「何か、してほしいこと、ある?」
 「あるある。」
 「なーに?」
 「エッチして。」
と笑いながら言う僕に、彼女は、
 「人妻になんてことを・・・。そのビョーキもついでに治してもらいまい。」
と言い、相変らず寂しげな顔で笑っていた。
 「だって、ホントにしたいもん。」
冗談か本音か、自分でも分からなくなってきた。
 「病院じゃ、一人ですることも出けんもん。」
いつもならこんなことまでは言わないが、Hにはもう強がる必要もないじゃないかという思いが、僕に本音を吐露させたのかもしれない。
 「ホントにしたかったらぁ、なんで真剣に言わんの?」
いつもなら拳で頭を叩く真似をしてとりあわない彼女が、僕の目を見つめながら真顔で言った。予想外の展開だ。
 「いつも冗談みたいに言うから、いけないのよ。」
 「だって、こんな体でそんなこと言うたって、笑われるだけやろ。」
 「その思い込みがいけないんだ。最初から逃げてるぅ。」
いちばん弱い部分を指摘されて、僕は言葉を失った。それにも増して、Hが予想以上に僕の心情を見抜いていたことに驚いた。牽引のベルトを顔につけたまま、僕は暫く真上を向いていた。数分は経ったと思われたが、実際には1分にも満たなかったかもしれない。
 「その他にしてほしいことは?」
彼女は真顔のままだ。
 「このベルトを外して。」
これだけの会話でかなりエネルギーを消費したので、すっかり汗だくになっていた。
 「いいの?」
 「もう時間が過ぎたから」
 「そう? じゃ」
Hは、僕の顔に覆い被さるように顔を近付けた。それから、顎に掛けたベルトのマジックテープを外し、
 「ごめんね」
と言うなり、何か言おうとする僕の口を、自分の唇で塞いだ。彼女の髪が僕の顔の両側に壁を造り、あたかも小さな部屋の中のようだった。

 僕の頭の中は真っ白になった。過去の出来事も、彼女が人妻だということも忘れた。そのまま互いの唇を貪るように吸い、舌を絡め合った。彼女の顔をよく見ると、閉じられた目蓋の両端から、大粒のしずくが今にも転がり落ちそうに光っていた。この涙は何を意味するのだろう。
 そのとき、廊下を足音が近付いた。彼女は顔を離し、僕の唇を手早く掌で拭った。そして、その手で自分の涙も拭いた。ノックの音がして病室の扉が開き、中年の看護婦が顔だけ覗かせた。「ああ、外してくれたんですね。よかった。それにしても、三谷さんは面会の方が多くて、いいわね。でも、もうすぐしたら訓練に行かなきゃね。」そう言って、一人で納得して出て行った。ボランティアを雇っていることは、婦長とケースワーカー以外知らないらしい。
 「それじゃ、私そろそろ帰るわ。」
彼女が立ち上がった。
 「もうちょっと居ってヨ。」
 「近いうちにまた来るから、ネ。」
年下の男の子をなだめるように言った。
 「ほら、花瓶の百合を私だと思って待ってて。」
そこには、彼女が飾ってくれたらしい、大輪の百合の花があった。
 「ありがとう。じゃ、またきっと来て。」
 「うん」
彼女は、僕の動かない左手を力いっぱい両手で包みこみ、頬擦りをしたあと立ち去った。僕は、病室にひとり取り残された。しかし、つい今し方起こった出来事は、確かに夢ではなかった。それを確かめるように、唇の、舌の、左手の感触の余韻を味わっていた。
 まもなく、さっきの看護婦が来て僕を電動車イスに乗せてくれ、いつものようにリハビリに行ったのだが、訓練士の先生が驚くほど僕の体は柔らかくなっていた。骨抜きにされたようだ。僕のリハビリの目的は、まさに体の緊張を解きほぐすことにある。
 ということはつまり、この身体ごと愛してくれる相手がいれば、激しい緊張もやわらぎ、リハビリの効果もあるのではなかろうか。しかし、なぜ彼女はあんなことをしてくれたのだろう。必死で忘れようとしていたHへの思いが、枯れ草に火を放ったように燃え上がっていた。彼女のことを考えているうちに、その日はいつの間にか暮れた。

 病院の夜は早い。全て職員の都合のいいような仕組みになっている。夕方5時には食事が来て、患者達は食堂に集まって同じ物を食べる。患者の多くは、脳溢血や脳梗塞によって半身不随になった人達である。その原因のひとつは塩分の取り過ぎだと言われ、そういう患者には調味料も控えられていた。しかし、そういう人達にかぎって辛口なのだ。だから食事のたびに、醤油をかけろかけないで、看護婦と言い争いになった。
 僕はその声を聞きながら、時間内に食べられるように少しでも速くスプーンを口に運ぶ。味がどうのこうのと言っている余裕などない。半畳もある広さでゴムのような素材のエプロンをかけ、分厚いゴム板の上に置いた、縁が内側に曲げられた食器で食べるのだ。こんな重装備をしても、まだ食物をこぼす。こぼすのは何も言われないが、時間が来れば看護婦は例の儀式に行くので、食べ終えていない僕は食堂に一人取り残される。

 ちょうどこんな時、ボランティアが来てくれる。この時間に来てくれるのは、近くの看護学校に通う学生だ。彼女達は、嬉々として僕の世話を焼いてくれた。甲高い彼女達の声が、静まり返った病棟に響く。たまにはクレームも来たが、暗い雰囲気を吹き飛ばしてくれるから、むしろいいと言ってくれる人も多かった。
 食事の後片付け、洗顔、パジャマへの着替え、コインランドリーでの洗濯、検温とテキパキとすませてゆく。その間じゅう、身の回りに起こった出来事などを話してくれるのだ。いつもなら彼女達のそんなおしゃべりを、これで1日なんとか終わったとホッとした気分で聞いているのだが、この日ばかりは上の空だった。

 彼女達が帰ってベッドに入るまでの時間も、朝食後と同様、準夜の看護婦によって左右される。いやなタイプの看護婦の顔を見るぐらいなら、たとえ眠れなくともさっさとベッドにもぐり込んだ方がマシというものだ。この日はさほど嫌いな看護婦でもなかったが、早めに寝かせてもらった。テレビも見ず、病室の蛍光燈も消してもらった。
 入り口の扉のすりガラス越しにトイレの明りが入ってきて、彼女が活けていってくれた百合の花を闇に浮かび上がらせている。あれから9時間しか経っていない。それなのに、彼女が会いに来てくれたことさえ幻のように思えてくる。それは、あまりにも突然であまりにもあっけなかったせいかもしれない。
 彼女は確かに「ごめんね」と言った。とすると、あれは罪滅ぼしのつもりだったのだろうか。それは、僕を好きなのではなく、哀れみをかけてくれたに過ぎないのではないか。しかし、いくら罪滅ぼしだったとしても、好きでもない男にあんなキスが出来るだろうか。いやいや、わけなどどうでもいいではないか。愛する女性がキスしてくれたことを単純に喜べばいいのだ。とにかく彼女にもう一度逢いたい。

 こんな堂々巡りに収拾がつかず、看護婦が見回りに来る11時をむかえた。そっと扉を開け、懐中電灯の光を部屋のあちこちに這わせて、また扉を閉める。いつもどおりだ。しかし、しばらくするとまた扉が開いた。おかしいなと思いつつ寝たふりをしていると、扉が閉じられ、病室に誰か入ってきたようだ。目を開けてその方を見ると、逢いたいと思っていた彼女が再び立っていた。
=つづく=

(その5)
前号までのあらすじ:
 失恋したのをきっかけにプログラミングの泥沼にはまり込んで、ついには体を壊してし まった脳性マヒの僕は、ついに入院するハメになった。何もかも規則で固められた病院の体制に反発をおぼえながら、一方では周りの者に気に入られようと努める自分にも腹を立てていた。そんなとき彼女が見舞いに現れ、突然キスをして帰った、再会を約束して。

 窓から差す弱い光の中に佇む彼女Hは、昼間とはうって変わった地味な服装で、白いブラウスの上に紺のカーディガンを羽織り、茶色のロングスカートをはいていた。そして昼間来たときと同じ様に、ベッドの下の衣装ケースを引き出して座ったH。「やっぱり来てくれた。」「約束したもん。」僕は布団から左手を出そうとして、あがいていた。
 しかし、左手にいれたつもりの力は、左手以外の全身の緊張を招き、背中が「く」の字型に反り返る。肝心の左手はというと、これが全然動いていない。この症状がアテトーゼだ。動かしたいところが動かないのならまだ話は解るが、それに伴って別の部分が動くのだから始末におえない。逆に動かさないでいようとすると、勝手に動いてしまったりするのだ。

 「こっち側に来て。」僕は、比較的自分でコントロールできる右手で、ベッドの反対側を指した。彼女は、僕の言いたいことを察した様子で、腰掛けていた衣装ケースを元に戻し、ベッドの向かい側に来て再び腰を下ろした。そして、昼間の途切れたシーンを再開するように、宙を泳いでいた僕の右手を両手で包みこむ。その冷たさは、外の冷え込みの厳しさを物語っていた。
 「どうやって入ったん?」と聞く僕に「通用口から。用務員のおじさんがうつむいてる隙にネ。」と答えるH。それっきり二人とも口を開こうとはしなかった。彼女の座った後ろには、空のベッドを一つ隔ててブラインドを下ろした窓があり、その隙間から月光らしい弱い光が差し込んでいる。そんな逆光の中で彼女の表情は分からなかったが、視線はずっと僕に注がれているのを感じていた。

 見回りが終わったらしく、病室の外に控え目な足音が近づき、そして遠ざかっていった。しばらくして僕が口を開いた。「あれからずうっと考えとったんやけど、なんであんなことしてくれたん?僕に悪いことしたと思とるから?」「なんでそんなこと聞くの? 私『してあげた』なんて意識ない。」彼女はやや語気を強くして続けた。
 「あなたとキスしたかったからそうしたの。それでいいじゃない。」Hが僕を『あなた』と呼んだのは、これが初めてだ。「ほんなら、なんで『ごめん』言うたん? なんで泣いてたん?」僕は、今すぐ抱きしめたい欲望とは裏腹に、努めて冷静を装っていた。それは、本心をすべてさらけ出して、もしHの気持ちが単なる同情だった場合、更に落胆するのを恐れての予防線だったのである。
 「それは・・・」
彼女は、思い出を手繰るように言葉を探しながら、ゆっくり、落ち着いた口調で言葉を継いだ。
 「それはネ、あなたが『好き』って言ってくれるまで、私あなたの気持ちなんて全然考えたことなかった。あなたが黙って聞いてくれるのをいいことに、自分の悩みを打ち明けてばかりいたわよネ。」
 「それでええやんか。僕やって無理なことも言うたし。」
 「たとえば?」
 「君が訪ねて来てくれたとき、帰りに乗せて行って言うたり・・・」
 「そうそう、そんなこともあったわネ。」
 「僕を抱えて車に乗せるときも、車いすをトランクに積むときも、ふうふう言よった。」
 「体重が35㌔って聞いてたから、もっと軽いのかと思ったもの。こんなか弱い女の子になんてことを頼むんだろと、
あのときは思ったわ。」
 「そうだろう?君を女として扱っていなかったもんナァ。ほなけん、あいこや。」
 「女として扱ってなかったのなら、どうして途中でホテルに誘ったの?」
 「ほんの冗談や。」
 「私もそう思って聞き流したわ。でも、ホントは違うってことが分かった。」
 「何が分かった?」
 「そこまで言わせる気? 男らしく白状なさい。」
 「んなこと今更言うてもはじまらんわ。」
 「また、きれいな看護婦さんに目移りしたんでしょ。」
 「内科の先生も独身の女医さんやし、リハビリの先生んなかにもきれーな人がおるでー。」
 「そうなんだ。結構うまくやってるんだ。」
 「そうや。病院もなかなかええもんやで。」
こんなはずではなかった。しかし、彼女は握っていた僕の手を布団の中に戻して
 「それで、安心したわ。相変わらずエッチな三谷さんでよかった。」
と言って立ち上がった。このまま彼女と別れれば自分に対してのメンツは保てたはずだ。
 「それじゃね。元気で。」
しかし彼女がそっとドアに歩み寄り、取っ手に手を掛けたとき
「まだ好きなんや。」
と叫んでしまった。あのときもそうだった。最後のつめの段階で、自分の弱さに押し流されてしまう。大人の男には程遠い自分が恨めしかった。

 彼女は静かに引き返し、今度は椅子には腰掛けずベッドに向かって膝を折り、僕に顔を近づけた。「それが聞きたかったの。」彼女の髪が僕の頬に触れた。その途端、僕の理性は砕け散った。布団の中に戻された右手をもう一度出して、彼女の首にまわそうとした。だが、体は思うようには動かない。プログラミング中の長時間にわたる同じ姿勢の継続が、筋肉を固定化してしまったようだ。
 アテトーゼで始終動いているはずなのに、なぜそうなるのかは分からない。ともかく彼女を求めていた僕の右手は、彼女の両手に捕獲され、強く握り締められた。「君が欲しい。」やっとのことで言った僕に、彼女はゆっくりうなずいた。そのまましばらくうつむいていたHは、やがて意を決したように顔を上げ、「あっち向いてて。」と言った。僕は素直に従う。握られていた手がはなれた。ブラインドに乱反射した光が、洗面台のある壁に淡いタペストリーを描いていた。その中に彼女の影が立ち、カーディガンを脱ぎはじめる。静まり返った病室に、衣擦れの音だけがしていた。
 この瞬間をどれほど待ちわびただろう。しかし、同時にとてつもない不安に襲われた。その行為を具体的にどう進めるか、そもそもその行為自体可能なことなのかどうか、まったく分からなかったのである。少なくとも男性器官は機能して固くなってはいたが、セックスはそれだけで出来るものではないだろう。

 アダルトビデオなどを見ていると、男優が激しく腰を動かしているが、僕には四つ這いになることさえ不可能なのだ。普段の会話で言っているほどエッチな行動を起こせないのは、あまりにも相手の負担が大きいだろうという意識が働くことも一因だ。僕は不安で、息苦しいほど緊張していた。だが、人妻と関係を持つことには、少しの罪悪感も感じてはいなかった。
 彼女はもともと好きで結婚した訳ではない。だから、少なくとも精神的な部分では亭主より僕の方が彼女との結び付きは強いはずだ。泥棒にも三分の理があるとすれば愛されていないことに気付かずに結婚を迫った亭主こそ罪深いのだ。もしこのことが亭主に知れたら、僕にとってはかえって都合がいいかもしれないと思えるほどだ。
 彼女の影はスカートに手をかけ、下ろそうとしていた。背中から太腿にかけての曲線が艶めかしい。僕はつばを飲み込んだ。その音が彼女にも聞こえたらしく、彼女の動きが止まった。
 「見てるの?」
 「影が見える。」
 「ずる~い。」
 「綺麗や。」
再び影絵が動きはじめた。僕はその美しい光景を、映画が始まったばかりのときのような、現実離れした感覚で捉えていた。そうすることで、不安から逃れようとしていた。
 しかし、心配の種はあとからあとから湧いてくる。病院では週に2度入浴させてくれるのだが、この日は運悪く入浴日の前日だったのだ。そうでなくても昼間の会話であれだけ汗をかき、再び彼女が来てくれてからも相当しゃべってきて、自分で自分の汗の匂いが分かるほどになっていた。体に香水を振ることも出来ない。影絵の中の彼女が、何かに片足を乗せて、ストッキングを外していく。僕は不安に耐えきれず、彼女に言った。
 「後悔せんかな?」
 「私が?」
 「うん」
 「先のことは分からないけど、このまま帰る方が後悔すると思う。」
 「うまく出来るかな?」
 「そんなこと・・・。何でもやってみなきゃ分からないって、あなたの口癖じゃなかった?」
意外にさばさばした口調だった。もうどうにでもなれと思った。そう思うあとから、気持ちが揺らぎだす。やがて布団がめくられHが僕のベッドに入ってきた。そして、僕の右手に彼女の冷たく滑らかな素肌が触れたとき、不安を覆い尽くすほどの熱い思いが漲ってきた。
 僕は彼女の方に顔を向け、それから体も横に向けようとした。Hはためらいがちに手を貸してくれ、かつてなかったほど間近で僕の顔を見つめて、「好き。」と呟いた。僕は、たとえいますぐ彼女がその場から立ち去ったとしても、もうそれで十分のような気がした。それほど僕にとってこの言葉は、他のどんな励ましや慰めの言葉より、数万倍も価値の高いものだった。
 僕だけでなく、体や心に障害のある者、いわれなき差別をされている者にとって、誰かに好かれていることで初めて自分で自分を人間として認められるのだ。障害者がしんどいのは、体や心の機能が人より劣ることではなく、最初から気持ちが負けてしまうことではないだろうか。僕は、「好き。」と同じ言葉を返すのがやっとだった。そして、そのまま互いに顔を寄せ合い口づけをした。もう誰かが病室に入ってくる気遣いもなく、僕は夢中だった。

 彼女は目蓋を閉じたまま、僕の手を手繰り寄せ自分の背中にまわした。伸ばすのに比べて曲げる動作の方が楽に出来る僕の手は、まわされた彼女の背中を抱え込み、二度と離れないほどの強さで締めつけた。それに応えて、彼女も僕の体を抱き締めてくれる。相変わらず口づけをしたままだ。
 そのまましばらく彼女の体を抱いていた。もちろん早く一つになりたかったが、こちらはまだパジャマを着たままだ。僕は彼女の胸の谷間に顔を埋めることで、その気持ちを表そうとした。Hは僕の頭を両手で包みこみ、さらに彼女の顔が重ねられた。
 「もっと早く『好きだ』って言ってくれてたら・・・」
Hが僕の頭に口をつけて、呟くように言った。
 「もっと早くこんなふうになってた?」
僕はHの顔を見ながら聞いた。
 「バカ。人が真面目に話してるのに・・・。」
彼女は怒った振りをして、僕の顔をもう一度乳房に押し付けた。こういう仕置きなら喜んで受ける僕だ。そして、彼女は言葉を継いだ。
 「もっと前にあなたの気持ちを知ってたら、『Yさんを紹介して』なんか言わなかった。そしたら、あなたをこんなに傷つけることもなかったわ。」
この際もう昔のことなどどうでもよかった。しかし、Yの名前を聞いた途端、心がかき乱されるのをおぼえた。彼女と一緒に暮らしている亭主にはこんな思いは抱かないのに、これは一体どういうことだろう。僕は「言うな」と言う代わりに、Hの乳首を軽く噛んだ。ため息とも喘ぎ声ともつかぬ低い声を上げたH。
 「憎いでしょうね、私が。」
 「ああ。」
顔を上げると、涙を溜めたHの二つの眼が僕を見ていた。そんな彼女がたまらなくいyとおしかった。
 「だけど、君が好き。」
そう言った僕をHはうっとりと見つめた後、
 「こんなやさしい人に気付かなかったなんて。」
と、自分の唇を噛んだ。
 「やさしくなんかないよ。君とエッチしたかっただけや。」
照れで言ったのではない。僕は自分が人を愛することなど出来ないと思っているからこんな言葉になってしまう。しかし、彼女はそうはとらなかったらしい。
 「そう? じゃ今夜だけあなたのものになってあげる。服、脱いで。」
一転してHは陽気になり、ベッドの上に座って僕のパジャマを脱がせはじめた。

 僕も笑いながら、知恵の輪のような僕の手の動かし方を教えた。横を向くと僕の顔の前には彼女の膝があり、彼女が動くたびに膝と膝の間隔がわずかに開いたり閉じたりした。彼女はその視線に気付かぬはずはなかったが、何も言わなかった。というより、パジャマやシャツの袖から僕の手を抜くことに精一杯だったようだ。
 そうやって上半身が裸になり、Hはズボンを脱がしにかかる。看護婦にいつもしてもらうときも気になるが、このときの比ではない。しかし、シャツに比べれば簡単に脱がせられるので、そんなことを考えているのも束の間だった。「派手な下着。」赤い縞模様のトランクスを見て、彼女がまた笑った。笑いながらそのトランクスも下ろされ、僕のいきり立ったものがあらわになった。彼女は笑うのをやめ、それをさも大事なもののように頬擦りをし、さらに口に含んだ後、手を添えて自分の中に導いた僕は、彼女の大胆な行動に驚いたが、それ以上にかつて味わったことのない感覚の波に揉まれていた。
 いっぽう彼女は僕を挿入したまま、上体を僕の上に重ねてきた。二人のあいだを隔てるものは、もう何もない。再び抱き締めあい、口づけを求めあった。僕の顔は彼女の長い髪で覆われ、僕の体は彼女のきめ細かい肌に包まれていた。僕はいつしか自分が障害者であることを忘れた。

 その夜、僕とHは三度も求め合い、愛し合った。今夜を逃せばこういう機会が二度と訪れないという、確信にも似た予感がして、二人はそうせずにはいられなかった。3度目が終わった後、汗と体液に濡れた僕の体を拭きながら「またあなたの心を乱してしまった・・・。こんな私を憎んでもいいから、いつまでも忘れないで。」と彼女は言った。
 「君が愛してくれたこと、死ぬまで忘れんけん、また会おう。」と言った僕に、彼女は力なくうなずいただけだった。事実、それ以来彼女とは会っていない。病室から出て行くときの寂しげなHの後ろ姿が、6年も経った今でも鮮明に思い浮かぶ。

=完=

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