歌集・深海魚
あとがき
本文よりあとがきを先にお読みになる方は多いので、ここに筆者の本音を書かせてください。
実は、こんな歌集を出しておきながら、短歌や文語についての知識をあまり持ち合わせておりません。そもそも私と短歌との出会いは、新聞の歌壇でした。重度障害のため中学進学を断念した私は、語彙を増やしたいのと漢字を覚えるのが目的で、紙面でいちばん難しい漢字の並ぶ歌壇を読むことにしました。
その頃の選者の方々といえば、近藤芳美、馬場あき子、前川佐美雄、宮柊二の錚々たる先生方。この凄い先生方の選歌と選評を毎週読んでいたのですから、今から思えば何と贅沢なひとときだったでしょう。
そうやって辞書を引きながら選歌を読み、丁寧な選評を噛み締めていくうちに、その三十一文字に込められた奥深い心情が次第に伝わってくるようになりました。読みながら涙する事も度々でした。
歌壇を鑑賞するだけで満足していた私が、自分でも作るようになったのは、香川県旧引田町の公民館で始まった短歌講座に通うようになってからです。毎月1度、3キロ余りの道のりを電動車椅子で通いました。
講師は、林泉短歌会に所属する岡田元博先生でした。物腰の柔らかな、それでいて短歌に関しては厳しい先生で、この先生との出会いなくして、歌を詠むこともなかったでしょう。
さらに、この同じ講座を学ぶクラスメートの手助けも、たいへんありがたかったのです。先生が添削して下さったのをクラスメートの方々が書き写しておいて下さらなかったら、恐らくこの歌集も上梓できなかったでしょう。
短歌講座は10年ほどで辞めさせてもらいました。複雑な心境を表現できないもどかしさに、さじを投げてしまったのでした。以後、20年もの間ほとんど短歌とは無縁の暮らしをしていました。施設に入所して、 大変な時期でもありました。
そんなある日、パソコンのサイドバーに「うたのわ」サイトが誕生というニュースが出、早速入会し投稿し始めました。深海のような身障者施設の様子を一般の人々に知ってほしかったのです。
昨今の私は、DJタイプのヘッドホンにMP3プレーヤーをぶら下げて、70年代や90年代の洋楽に酔いしれています。こういう便利な道具を探し求めてネットを徘徊するのも、時を忘れさせてくれます。
この「あとがき」を打っているキーボードを照らすのは、最近見つけた提灯鮟鱇の頭に付いているようなLEDライト。リモコンも付いていて重宝します。他にも学習リモコンやらDACやらPC切替器やら、 マニアックな機器が所狭しと並んでいます。
これらを買う段階までは自分で出来ますが、その設置や設定は人に頼まねばなりません。支援員、介護士、事務員、実習生、友人、妹夫婦などなどから、私の言葉を理解するコツを身につけている順に選んで頼んでいきます。
人に頼むのも骨の折れる作業です。なにしろ、私の言葉は日常会話もほとんど通じません。こういうわけか私の言葉が分かる人の多くは理系が苦手。彼らが名前も知らないようなプラグを繋いでもらうのですから、私も彼らも困難を極めます。
この施設に住んで20年が経ちました。つくづく思うのは、人間はコミュニケーションによって生きているんだということです。
たとえ手足が全く動かなくても、自分の意図を丁寧に説明できる手段さえあれば、ほとんどの望みは誰かに解決してもらえます。私は、自分が発する声によって説明することができません。相手が理解できるような言葉を発声することができない。それこそが、私の日常生活を縛り、社会で自由に生きたいという当たり前の願いを打ち砕いた一番大きくて重い枷だと感じています。
うまく喋れることさえできたら。その思いが消えることはありません。ですから、私にとってパソコンは、最後の切り札なのです。
思えば私のする事は、昔も今も現実逃避でしかないのかもしれません。様々な活字を読み漁るのも、大音量で音楽に浸るのも、淫らな妄想に耽るのも、桎梏に押し潰されそうな日常と、漆黒に塗り込められた未来から少しでも逃れたいため。決して前向きな生き方とは言えません。
これが、私の人生です。この歌集は、こんな私の人生から生まれたものです。収録した短歌は、実はドロドロした本音からは目をそらし、ほんの上澄みを掬ったに過ぎないような気もします。賢明な読者諸氏におかれましては、その辺をおくみ取りいただければ幸いです。
2013 年 5 月
三谷康夫
編集後記
『じょんならん』出版から八年たちました。
『じょんならん』は、兄の中にある「光」に焦点をあてて書いてもらい、編集しました。「重い障害があるのに前向きな人」と言われる部分を、ありのままにお伝えできる本にしようと思ったのです。「同情なんかしてほしくない」という兄の思いもありましたが、「光」を見ることで自分自身も安心したい、皆さまにも安心して読んでいただきたい、という私の思いがあったように思います。
あれから、いろいろなことがありました。皆さまから温かい励ましをいただき、兄は恋や別離も経験し、私たち家族の有り様も変わっていきました。何より、両親と兄は年老いました。
「こんな、歩けもせん、話せもせん子を学校にやって、どうするんですか」
五十年前、兄を小学校へ通わせるために引田町の教育委員会を訪ねた母に、町の担当職員が言い放った言葉です。この一言は、母の心を深く抉りました。今も、その時のことを話すと涙で言葉が詰まる母です。
障害児は家に閉じ込めておくのが当たり前の時代でしたが、母は県知事に直訴し、兄は小学校に通うことができました。入学式の日から、母と兄は児童や保護者の好奇の目にさらされ、理解のない教師に苦しめられ、障害児を恥とする親族から非難され続けました。あまりのつらさに、母は三年生になった兄を施設に預けました。しかし、施設に支払うお金が続かず、また連れ帰って六年生まで通わせたのでした。
私は兄が五年生の時、同じ小学校に入学しました。学校に行くと毎日母がいました。上級生の中には、 友達に背負われながらアテトーゼで体をねじらせている兄もいました。でも、そのせいで誰かにからかわれたこともなければ、それが嫌だと思ったこともありません。六年間で兄は友達の中に溶け込み、母も教師の理解を得ていました。兄と母の「屈託のない明るさ」が、周囲に受け入れられた一番の要因であったのだろうと思います。
小学校卒業後、兄は進学を断念して家に籠りました。十代、二十代の頃は、少しなら自分で体を移動させることもできたし、右腕も使えていました。中学卒業認定試験に独学で合格し、高校の通信教育を受け、 アマチュア無線の資格をとり、ジャズを聴き、作詞を習い、短歌を詠みました。電動車椅子を手に入れると一人で出かけ、電車にも乗るようになりました。たくさんのボランティアや理解ある方々と出会うこともできました。
世の中に個人用の小型コンピュータが登場すると(当時はマイコンと呼んでいました)、いち早く購入しました。BASICでプログラミングすることに熱中し、パソコン通信を始め、兄の世界はいっきに広がります。
次々に新しいことに挑戦する兄の姿は「重い障害があるのにいろいろチャレンジして楽しそう」に見えたかもしれません。でも、それは単なる遊びごころや好奇心からの挑戦ではなく、「歩けもしない、話せもしない自分が社会に参加する方法はないのか」という問いの答えを、真剣に、ひとりで探し続けていたのです。ただ生かされているだけでは存在している意味がない。人の役に立ちたい。時間を消費するだけでは終わりたくない。そう切望していたようでした。
でも、ネットの世界では自由に泳ぎ回ることができても、現実世界ではスイッチひとつ押すことができません。ネットの中では他の住人と対等にやりとりできても、現実世界ではアテトーゼが分厚いフィルターになって誤解され、相手の中に軽蔑や憐憫が湧き上がるのを見なければならないのです。その落差は兄の中に怒りや絶望を生み続けました。長くて暗くて出口のないトンネルの中に自分ひとり。それが、自分の人生に対するイメージであろうと思います。
それでも、トンネルは決して「漆黒」ではなかった。ところどころに窓が開いていました。それは、誰かが開けてくれた窓ではなく、閉じ込められることに抵抗する兄の精神が不自由な体を駆使して開けた窓でした。トンネルの壁を光で満たそうとする心のエネルギー、と言えばいいでしょうか。それを集めたのが『じょんならん』です。
昨年(平成二十四年)八月二十三日、兄の五十六歳の誕生日に、私の携帯が鳴りました。
「泰夫が入院したから、すぐ来てほしい」という母からの電話でした。
病室のベッドで点滴につながれていた兄は、ひと回り小さくなっていて目が落ちくぼんでいました。嚥下障害から肺炎を発症し、高熱を出していました。これが初めてではなく、二度目の入院だと私はその時初めて知らされました。
言語障害のある障害者の入院は、本人も看護する方も大変です。双方の負担を軽くするために、時間が許す限り病室に付き添いました。その時、時間つぶしに病室に持ち込んだのが、実家に残っていた兄の短歌です。手書きのものをガリ版で印刷したらしく、色が褪せてボロボロになっていました。それを兄の傍らでパソコンに入力していくうち、これこそ兄の心の真実だとしみじみ思ったのです。
肺炎が治った時、胃瘻をつけることを施設側から提案されました。母は動揺しました。私は反対しました。兄は迷いました。食べられずに痩せてしまい、無理して食べると喉につまらせて吐き、肺炎まで起こしてしまう。兄は、このままでは避けることができない毎日の苦しみに嫌気がさしており、母は施設の職員の負担を思い、私は実際に何も手を差し伸べられない自分を恥じ、三者三様の思いで胃瘻をつけることに了解しました。
入院が重なったせいか、体力がなくなったせいか、人より早い老化のせいか。兄の体は動かなくなりつつあります。右腕が上がらず、パソコンがこれまでのようには使えません。電動車椅子の操縦も危なっかしくなりました。以前は言語障害がありながらも単語を発声していたのに、今では囁くように一語を発するのがやっとです。 体が動かなくなったことで、光を生み出そうとするエネルギーも弱くなってきました。せめてパソコンだけは使えるようにと最新の機器を試していますが、機械に兄が合わせるのはもう不可能です。兄の様々な要求に応え得る機械ができるのか、あるいは、目的を絞った機械を多数用意するのか。どちらにしても、兄の老化との競争です。
この本に収録した短歌は三〇九首。昭和五十八年夏から平成二年春までの七年間と、平成二十年秋から二十四年春までの四年間、時期としては大きく二つに分かれます。年代ごと並べるのが一般的かもしれませんが、対象ごとにまとめました。詠んだ時期が前後して理解しにくいところがありましたら、ご容赦ください。あらゆる対象への苦悩の連続が、兄の人生そのものなのです。
これから先、パソコンを使って思いを表現することは難しくなるかもしれない。そう感じて、今この時期にこの短歌集をつくりました。社会へ向けての発信は、これが最後になるかもしれません。これまでキーボードと格闘しながら呟いてきた兄の言葉が、皆さまの心に響きますようにnn。
平島智子(実妹)
著者プロフィル
著者 三谷泰夫 (みたに・やすお)
1956年、香川県東かがわ市(旧引田町)生まれ。生まれて間もなく脳性小児麻痺となり、両四肢麻痺、言語障害に。母・房子は、同町で「心身障害児を守る親の会」を立ち上げる。引田町立相生小学校を卒業。1975年、文部省(当時)より中学校卒業程度認定証書を授与。独学でアマチュア無線技師、パソコン検定、インターネット実務検定など様々な資格を取得。また、「香川車イス旅行の会」の会長を務めるなど、電動車椅子で町内外を駆け巡る。パソコンを得てからはプログラム作りに熱中。コミュニケーションツールを駆使して、人的ネットワークをますます広げ、 その道のエキスパートに。趣味は、作詞、短歌、書、ジャズなど多彩。
編集・構成・写真 平島智子(ひらじま・ともこ)
旧引田町生まれ。著者の実妹。香川大学教育学部卒業後、岡山に嫁ぐ。元小学校教諭。
歌集 深海魚
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2013年8月1日 初版発行
著者 三谷康夫
編集・構成 平島智子
写真 平島智子
発行者 山川隆之
発行 吉備人出版
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2013 Yasuo MITANI & Tomoko HIRAJIMA, Printed in Japan
ISBN978-86069-357-2 C0092
